分類 | 魔槍 |
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表記 | ◇Ar-éadbair(O'Curry) |
語意・語源 | ◇"slaughterer"(Joyce), ◇「屠殺者」(健部), ◇「殺戮者」(小辻) |
系統 | 神話物語群 |
主な出典 | ◇『トゥレンの息子たちの最期(Aided Chlainne Tuirenn)』
神話物語群の物語。トゥアタ・デー・ダナンのトゥレンの息子たちがキアンを殺し、贖罪のためにキアンの息子ルグから解決できそうもない八つの難題を課される。ケルト三大悲話の一つ。18世紀の多くの写本に初期近代アイルランド語で残る。(マイヤー)/
古代ケルト文化研究者として名高いP.W.ジョイス(Patrick Weston Joyce, 1827-1914)は『ケルトのロマンス(Old Celtic Romances)』(David Nutt, 1879)の中で、「トゥレンの子たちの運命(The Fate of the Children of Turenn)」と題してこの物語を翻訳・再話している。その直接の典拠は不明だが、ジョイスによれば、『レカンの書(The Book of Lecan)』(1416頃)に短い記事が載るほか、十全な物語のテクストとその直訳がO'Curryによって発表されている。また、ロイヤル・アイリッシュ・アカデミーには良質の写本が複数残るという。(Joyce)
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参考文献 | ◇八住利雄編 『世界神話伝説体系40 アイルランドの神話伝説〔I〕』 名著普及会, 1981.2(1929.3) ◇三宅忠明 『アイルランドの民話と伝説』 大修館書店, 1978.5 ◇フィオナ・マクラウド(荒俣宏訳)『ケルト民話集』 筑摩書房, 1991.9(1983.2) ◇井村君江 『ケルトの神話』 筑摩書房, 1990.3(1983.3) ◇健部伸明と怪兵隊 『虚空の神々』 新紀元社, 1990.5 ◇フランク・ディレイニー(鶴岡真弓監修/森野聡子訳)『ケルト 生きている神話』 創元社, 1993.3 ◇小辻梅子訳編 『ケルト魔法民話集』 社会思想社, 1995.6 ◇フランク・ディレイニー(鶴岡真弓訳)『ケルトの神話・伝説』 創元社, 2000.9 ◇ベルンハルト・マイヤー(鶴岡真弓監修、平島直一郎訳)『ケルト事典』 創元社, 2001.9 ◇Eugene O'Curry, The Fate of the Children of Tuireann, Atlantis Vol. IV?, 1863? ◇P.W.Joyce, Old Celtic Romances, The Talbot Press, 1961(second edition 初版1894) ◇Peter Berresford Ellis, Dictionary of Celtic Mythology, ABC-CLIO, 1992 |
神話物語群の一つ『トゥレンの息子たちの最期』には、一本の不思議な槍が登場する。まずはこの物語の概要を井村君江の『ケルトの神話』(1983/1990)とベルンハルト・マイヤーの『ケルト事典』(1994/2001平島直一郎訳)から紹介しよう※1。
トゥアタ・デー・ダナンのキアン(Cian)の一族とトゥレン(Tuirenn)の一族は敵対関係にあった。ある時、キアンが一人でいる所に出会ったトゥレンの三人の息子ブリアン(Brian)、イウハル(Iuchair)、イウハルバ(Iuchairba)は彼を殺してしまう。これを知ったキアンの息子ルグ(Lug)は王の前で彼らに「償い(エリック)※2」を要求、三人に八つの難題を課す※3。それは、七つの魔法の品々の入手と一つの行為、すなわち、
1.ヘスペリデスの庭になる三つのりんご
2.ギリシア王の持つ魔法の豚の皮
3.ペルシア王ピサールの毒槍
4.シチリア王ドバールの持つ二頭立ての馬車
5.黄金の国の王アサールの持つ七匹の豚
6.イルアド王の持つ子犬
7.妖精の国フィンコリーの女たちが持つ焼き串
8.ミドカン王とその三人の息子が見張る丘の上で三度雄叫びをあげること
三兄弟はルグから魔法の船※4を借り、魔法の品々を求めて旅立つ。ある物は力づくで奪い、ある物は彼らの武勇に感服した持ち主から贈られるが、三兄弟がすべての難題を見事成し遂げたのか否かは、本ページの主題ではない。本ページの主題は、ルグが探して持ち帰ることを要求した魔法の品の一つ、ペルシア王の毒槍である。三兄弟はこれを強奪することに成功し、槍は他の宝物とともに「王」(おそらくヌアドゥ)に捧げられたが、井村(1983/1991)はこの槍について、次のような説明を付している。
血と戦いをいつも求めていて、その熱は町さえ溶かすほどなので、いつも氷につけてあるペルシア大王ピサールの毒槍。(p.93)
この『トゥレンの息子たちの最期』はケルト三大悲話の一つとされ、井村(1983/1990)以外の多くのケルト関連書籍にも取り上げられている。しかし、この槍の具体的な名称に言及している文献にはなかなか出会えない。例えば、八住利雄編 『世界神話伝説体系40 アイルランドの神話伝説〔I〕』(1981/1929)、三宅忠明 『アイルランドの民話と伝説』(1978)、フランク・ディレイニー 『ケルト 生きている神話』(1986原著/1993森野聡子訳)、同『ケルトの神話・伝説』(1989原著/2000鶴岡真弓訳)には、以下のように槍に対する記述はあるものの、名称への言及はない。
※1 : 以下、あらすじは主として井村(1983/1990, p.88-97)に負い、カナ表記は出来る限りマイヤー(1994/2001平島訳)に拠った。
※2 : 井村(1983/1990)によれば、「この当時には、殺された者の親族や友人が、殺した相手にたいして、仇を討つために重い罰をやらせることを償い(ルビ:エリック)」といったという(p.92)。
※3 : ちなみに、井村(1983/1990)は以下のものを箇条書きにするのみだが、小辻梅子訳編『ケルト魔法民話集』(1995)では、ルーグ(ルグ)は初め、三つのリンゴ、豚の皮、一本の槍…などと具体的な説明なしに要求するものを並べ、軽すぎると不安がる三兄弟に要求をのむことを誓わせる。その後、初めてそれぞれの詳しい説明をし、三兄弟の不安は的中するという少々凝った筋立てになっている。
※4 : 井村(1983/1990)はこの船を「静波丸(ルビ:ウエーヴ・スウイーパー)」と呼んでいるが(p.93)、このルビは英語(Wave-sweeper)を元にしたカナ表記だと思われるので、本文では取り上げなかった。ちなみに、Peter Berresford Ellis, Dictionary of Celtic Mythology, 1992 には"Ocean-sweeper"という項目があるが、"A magical ship...", "Lugh Lámhfada brought it from the Otherworld."という記述からみて、この船をあらわしていることは間違いない。同項目によると、その原語は"Aígean scuabadoir"である(p.173)。
一方、私の知る邦書で、この槍の名称に言及しているのは、健部伸明と怪兵隊の『虚空の神々』(1990)と小辻梅子訳編の『ケルト魔法民話集』(1995)のみである。まずは、その名を「灼熱の毒槍"屠殺者"」とする健部(1990)の137ページから引用しよう。ただし、健部(1990)は八つの難題を一覧にまとめた表形式で表示しているので、レイアウトはこちらで一部変更している。また、表中に登場する「ヘスペリデスの黄金のリンゴ」は、やはり八つの難題の一つして手に入れたもので、健部(1990)によれば、「投げると必ず的に当たり、相手を打ち殺した後、手元に戻って来る」という(p.137)
灼熱の毒槍"屠殺者" | |
場 所: | ペルシア |
守護者: | 王ペーザル(Pisear) |
詳 細: | 穂先が灼熱しており、保管している町全体を壊滅させてしまうほどの破壊力を持つ。そのため常に専用の大釜の中の氷水につけてある。これを持つと人を殺さないでいることはできない。 |
獲得方法: | 吟遊詩人として王宮に入り込み、毒槍に関するすばらしい詩を詠み、その返礼に要求した。激怒したペーザル王めがけて、ヘスペリデスの黄金のリンゴを投げつけてその頭を割り、槍を強奪する。 |
小辻梅子訳編の『ケルト魔法民話集』(1995)所収「トゥレンの子たちの運命」では、この「ペルシャ王ペザールの毒槍」の名を「殺戮者」としている。その登場箇所は以下の通り。引用するのは、自らの要求したものについて一つ一つ詳しく説明するルーグ(ルグ)の台詞。そして、三兄弟が実際に槍を手に入れる場面である。この他にも、この槍が戦いの中で実際に使われる場面など、p.56, 61, 65, 68, 72に槍への言及があるので、興味のある方は是非一読していただきたい。
おれがきみたちに要求する槍はペルシャ王ペザールの毒槍だ。その名を殺戮者という。火のように赤々と燃える槍先は、平和な時は、王宮を焼失しないようにいつも大釜のなかの水に入れてある。そして戦争の時は、それを戦場に持って行けば戦士は思うままの働きができる。この槍をペルシャ王から取り上げることは容易なことではない。(p.37)
それから、彼らは槍をしまってある部屋へ行った。大釜の水のなか深く先を沈めている槍をみつけた。そのまわりは泡立ち、シューシューと音がしていた。ブリーンはそれを大胆にも手でつかみ、取り出した。(p.57)
さて、小辻(1995)の「訳者あとがき」によれば、この「トゥレンの子たちの運命」は、P.W.ジョイスの『ケルトのロマンス(Old Celtic Romances)』(1879)から選んだものだという。健部(1990)の参考文献にも同書が含まれているので、その記述もジョイスに従ったものと考えられる。そこで、実際にジョイスの原文を見てみることにしよう。引用するのは、P. W. Joyce, Old Celtic Romances (second edition 初版1894/再版1961)所収"The Fate of the Children of Turenn"より、先に日本語訳を引用したルグの台詞である。
"The spear I demand from you is the venomed spear of Pezar, king of Persia. Its names is Slaughterer. In time of peace, its blazing, fiery head is kept always in a great cauldron of water, to prevent it from burning down the king's palace; and in time of war, the champion who bears it to the battle-field can perfrom any deed he pleases with it. And it will be no easy matter to get this spear from the king of Persia.(p.41)
その名は"Slaughterer"となっている。この語を健部(1990)は「屠殺者」と訳し、小辻(1995)は「殺戮者」と訳したのだろう※5。手元の『ライトハウス英和辞典 第2版』(研究社, 1991)に"slaughterer"という単語は掲載されていないが、"slaughter"は載っており、「1.屠畜、屠殺」、「2.虐殺、殺戮」の意味があることが分かる(p.1336)。"-er"が「〜する者」の意であることは言うまでもないだろう。
※5 : ただし、ジョイスが王の名を"Pezar"と綴るのに対して、健部(1990)はすでに引用した通り、"Pisear"と綴っている。したがって、健部はこの挿話に関してジョイス以外の文献にも当たっている可能性が高い。
健部(1990)や小辻(1995)が参照していた名前が"Slaughterer"なのは分かった。しかし、これは英語である。この名前がジョイスの創作でないとすれば、元になったアイルランド語名があったはずだろう。ジョイスは、アイルランド語を英語に翻訳する際、この槍の名前まで英訳してしまったものと考えられる※6。それでは、本来の槍の名前は何だったのか?
P. W. Joyce, Old Celtic Romances (second edition, 1879/1961)、その"PREFASE"、"THE FATE OF THE CHILDREN OF TURENN"の項を見てみよう。ここに底本の明示は見られない(と思う)が、かわりに次のような記述がある。
The full tale, text and literal translation, has been published by O'Curry in the Atlantis.(p.viii)
すなわち、十全な物語のテクストとその直訳がO'Curryによって、Atlantis に発表されているというのである。この Atlantis というのが何なのかよく分からなかったものの、それらしい論文を海外から取り寄せてみた。それが、Eugene O'Curry, The Fate of the Children of Tuireann, Atlantis Vol. IV?, p.157-240, 1863?である。送られてきたコピーには、表紙や奥付が付いていなかったので、結局詳しい書誌情報は分かっていないが、これに該当する記述を探してみると、次のような箇所を見つけることが出来た。
"And do ye know what spear it is I have demanded from ye?" "We know not", said they. "An excellent poisoned spear, of which Pisear, the King of Persia [is possessed]; Ar-éadbair it is called; and every choicest deed is performed with it; and its blade is always in a pot of water, in order that it should not [by its fiery heat] melt down the city in which it is kept; and it is difficult to obtain it.(p.189)
その名は、"Ar-éadbair"と呼ばれている。ジョイスが"Slaughterer"と英訳したのは、この"Ar-éadbair"だったのだろう。さて、次なる問題は、この訳の妥当性である。前田真利子・醍醐文子編著『アイルランド・ゲール語辞典』(大学書林、2003.11)を引いてみた所、"éadbair"に該当するような単語は発見できず、一方の"ar"には「の上[中]に ; に接して ; に所属して」など複数の意味があることが分かった(p.35)。さらに、同書によれば"ár"という名詞には、「虐殺」「破壊」の意味があるという(p.36)。ジョイスの英訳はこれを元にしているのだろう。この訳が妥当なのか否か、私には判断できない。しかし、「屠殺者」や「殺戮者」という名前が、英語"Slaughterer"からの重訳であることは間違いない。一覧ページの項目名は便宜上「"屠殺者"」にしてあるものの、本ページのタイトルが日本語表記なしの"Ar-éadbair"になっているのはそのためである。
※6 : 固有名詞の翻訳については、田中克彦著『名前と人間』(岩波新書, 1996)の「第3部 固有名詞の語源 三 漢字が固有名詞を変える」が示唆に富む。ちなみに、健部伸明の『虚空の神々』(1990)には、出来るだけ原語をカナ及びアルファベットで表示した上で、その意味も追記する姿勢が見られる。健部がこの槍の名を原語で表記せず、「屠殺者」と日本語訳したのは、原語の表記が分からなかったからだろう。一方、井村君江の『ケルトの神話』(1983/1990)は、このような場合、「静波丸(ルビ:ウエーヴ・スウイーパー)」や「応酬丸(ルビ:アンサラー)」のように、英訳名カナ表記と日本語訳名を組み合わせている(p.89)。私は前者の姿勢の方が好きだ。
執筆中。公開は「クラウ・ソラス」改定後?
スコットランドの作家フィオナ・マクラウド(Fiona Macleod, 1855-1905:本名 William Sharp)の『ケルト民話集』所収「クレヴィンの竪琴」には明らかにこの槍だと思われるものが登場する。マクラウド(シャープ)は若いころからケルトの民話を聞き集めていたというが、肩書きは作家であるし、この物語がどの程度民話に忠実なのかは正直よく分からない。しかし、少なくとも類似した民話が存在したことは事実だろう。ともかく、その記述を以下に引用する。
あんまり急いでいたので、あの有名なピサルの槍を持っていくのを忘れてしまった。戦場で人びとをふるえあがらせた武器だった。その昔チュレンの息子がきたえた名槍だったが、ルウ・ラムファダの神に奪いとられエールから永久に失われたものだ。まるで火のように烈しい武器だった。戦場では、その槍はまるで生きもののようにひとりでに飛びまわるという噂だった。(p.29-30)
「チュレンの息子」はトゥレンの息子のこと、「ルウ・ラムファダ」はルグ(ルウ・ラムファダは「長腕のルウ」の意で、彼の二つ名)だとすれば、役割は違っていても登場する人物(神々)は同じ。「まるで火のように烈しい」という表現も、小辻訳(1995)が「炎の槍」(p.56)、「燃え盛る槍先」(p.61)、「先が火のように燃えている」(p.68)と形容したペルシア王の槍を思わせるものだ。したがって、マクラウドの言う「ピサルの槍」が、本項の主役「ピサールの毒槍」であることは、まず間違いないと思われる。
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