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日本の神話・伝説の武器

《第5展示室》

アイヌや南西諸島を含めた日本の神話・伝説に登場する武器を集めています。邦語文献から収集している必然で、全展示室中で最多の展示数を誇りますが、詳細ページはまだほとんどありません。利用できる資料が多い分、著名な武器ほど詳しく調べようとすると手に負えなくなることが容易に予想されて、二の足を踏んでいるからです。そのかわり、この一覧頁で出典ごとの逸話をやや詳しく紹介しているものもありますが、武器によって内容にはかなり精粗があります。ウソは書いていないつもりですが、あるべき情報の欠落は少なくないかと。

◆記紀&中世神話  ◆寺社縁起  ◆朝家  ◆摂家  ◆平安武士  ◆酒呑童子  ◆田村&立烏帽子
◆鬚切・鬼丸  ◆膝丸・薄緑  ◆小烏&抜丸  ◆源平合戦  ◆源義経  ◆曾我兄弟  ◆南北朝
◆中世の記録  ◆戦国・江戸初期  ◆江源武鑑  ◆近世の伝説・昔話  ◆アイヌ  ◆南西諸島

◆記紀神話&中世神話
分類名称主な出典概要
神槍天之瓊矛
(あまのぬほこ)
◇『古事記』
◇『日本書紀』 etc.
記紀の国生み神話に登場する矛。伊弉諾尊/伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊弉冊尊/伊耶那美命(いざなみのみこと)が天浮橋からこの矛を指し下ろし、引き上げた時にしたたり落ちた潮が磤馭慮島/淤能碁呂島(をのころじま)になったという。『古事記』では「天沼矛(あめのぬほこ)」と表記。
天之逆鉾
(あまのさかほこ)
◇『御鎮座伝記』 etc.中世の神道書や軍記物語に登場する上記「天之瓊矛」の異名。「天逆戈」(『大和葛城宝山記』)、「天逆矛」(『天口事書』)などの表記もあり。
天乃魔返鉾
(あめのまかへしほこ)
◇『天口事書』 etc.中世の神道書に登場する上記「天之瓊矛」の異名。『大和葛城宝山記』では「魔反戈(まがへほこ)」とも表記、密教法具である独鈷杵との習合から「金剛宝杵」・「金剛宝剣」とも称される。
神剣天之尾羽張
(あめのをはばり)
◇『古事記』別名「伊都之尾羽張(いつのをはばり)」。火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)の首をはねる際に用いられた伊耶那岐命(いざなきのみこと)の十拳剣(長剣)。
神剣蛇の麁正
(をろちのあらまさ)
◇『日本書紀』別名「蛇の韓鋤の剣(をろちのからさひのつるぎ)」。素戔鳴尊(すさのをのみこと)が八岐大蛇(やまたのをろち)を斬った際に用いた剣。
天蠅斫剣
(あまのははきりのつるぎ)
◇『日本書紀』 etc.上記「蛇の麁正」の異名。『古語拾遺』では「天羽斬」(暦仁本では「天羽々斬」)と表記。
天十握剣
(あめのとつかのつるぎ?)
◇『古語拾遺』 etc.上記「蛇の麁正」の異名。『平家物語』では単に「十握の剣」とも呼ばれる。
神剣草薙剣
(くさなぎのつるぎ)
◇『古事記』
◇『日本書紀』 etc.
素戔鳴尊/須佐之男命が八岐大蛇/八俣遠呂知を斬った際にあらわれた剣。天照大神/天照大御神に献上された。『古事記』では「草那藝之大刀(くさなぎのたち)」と表記。三種の神器の一つ
都牟羽之大刀
(つむはのたち)
◇『古事記』『古事記』(真福寺本)に見える上記「草薙剣」の異名。「都牟刈之大刀(つむがりのたち)」とする異本もある。
天叢雲剣
(あまのむらくものつるぎ)
◇『日本書紀』 etc.『日本書紀』に見える上記「草薙剣」の異名。『平家物語』では「叢雲の剣」とも呼ばれる。
神剣大葉刈
(おおはがり)
◇『古事記』
◇『日本書紀』
阿治志貴高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)/味耜高彦根神(あぢすきたかひこねのかみ)が、その友人で返し矢によって死んだ天若日子/天稚彦(あめのわかひこ)の喪屋を切り倒した際に用いた十握剣。『古事記』では「大量(おおはかり)」と表記。
神度剣
(かむどのつるぎ)
◇『古事記』
◇『日本書紀』
上記「大葉刈」の異名。『日本書紀』では「神戸剣(かむどのつるぎ)」と表記。
神剣韴霊
(ふつのみたま)
◇『古事記』
◇『日本書紀』
熊野で神の毒気にあてられた東征途上の神武天皇/神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)に、武甕雷神/建御雷神(たけみかづちのかみ)が降して皇軍を助けた剣。武甕雷神/建御雷神が葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定した際に用いたのもこの剣であるという。『古事記』では「布都御魂(ふつのみたま)」と表記。
佐士布都神
(さじふつのかみ)
◇『古事記』上記「韴霊」の異名。別名「甕布都神(みかふつのかみ)」。
宝剣出石小刀
(いづしのかたな)
◇『日本書紀』新羅の王子天日槍(あめのひほこ)が将来した七つ(または八つ)の宝物のうちの一つ。後、これらの宝物を垂仁天皇に献上する際、天日槍の曾孫清彦はこれを袍の中に隠して献ずるのを免れようとするが、結局露見し、他の宝物とともに献上された。しかし、その後、収めた宝庫から自然と消え失せ、清彦のもとに戻った後、再び失せて淡路島へ至った。島人はこれを神だと思い、祠をたてて祀ったという。
宝槍出石桙
(いづしのほこ)
◇『日本書紀』新羅の王子天日槍が将来した七つ(または八つ)の宝物のうちの一つ。垂仁88年、これらの宝物は、天皇の求めに応じて、天日槍の曾孫清彦によって献上されるが、その中に出石桙の名は見えない。
宝剣胆狭浅大刀
(いささのたち)
◇『日本書紀』新羅の王子天日槍が将来・献上した八つの宝物のうちの一つ(七つとする伝にはこの大刀見えず)。ちなみに、残る五つの宝物の名は、羽太玉(はふとのたま)/葉細珠(はほそのたま)、足高玉(あしたかのたま)、鵜鹿鹿赤石玉(うかかのあかしのたま)、日鏡(ひのかがみ)、熊神籬(くまのひもろき)。


◆寺社縁起・霊験譚
分類名称主な出典概要
神槍隼風
(はやかぜ)
◇『宮寺縁事抄』
◇『八幡愚童訓』 etc.
震旦国の陳の大王の娘、大比留女が七歳の時、朝日によって懐妊して出来た息子八幡が、日本の大隅国で隼人を討ち取った際に用いた鉾。身の長さが八尺、広さが六寸もあった。『八幡愚童訓』諸本は「隼風鉾」「隼風ノ鉾」とするが、『宮寺縁事抄』や『八幡大菩薩示現記』は単に「隼風」と表記する。
名刀蛇斬
(へびきり)
◇『讃岐国名勝図会』
丹後守寒川元隣が讃岐国寒川郡長尾郷の八幡社に奉納した名刀。元禄年中のある日、同社を司っていた神正院の主僧宣政が、社殿で奉幣の後、寺に帰ろうとしたところ、長さ数丈の大蛇が社を取り巻いていた。強勇無双の荒法師だった宣政も大いに恐れ、神に祈ると、帳の中から、彼の蛇は民を幾たびも害しているので、壁の上に掛かる寒川元隣奉納の太刀で退治せよ、とのお告げがあった。そこで宣政は大いに力を得、この太刀を取って大蛇を切って捨てたという。
斬蛇剣
(ざんじゃけん?)
神刀鬼切丸
(おにきりまる?)
◇民話
「三毛入野命の鬼八退治」
〔宮崎県高千穂町〕
三毛入野命が、祖母岳明神の娘の稲穂明神の子、鵜ノ目姫を助けるために、二上山の千々が窟に棲んでいた鬼八という鬼を斬った刀。十社大明神の宝物。三毛入野命は十社大明神の祭神で、後に神武天皇として即位する磐余彦命の兄に当たる。


◆朝家の重宝
分類名称主な出典概要
宝剣次田
(すきた?)
◇『出蔵帳』かつて東大寺の正倉院に納められていた金鏤宝剣。天平宝字三年(759)十二月二十六日、「大小咋」・陽宝剣・陰宝剣・銀荘御大刀の四口とともに出蔵され、以後戻らなかった。
宝剣大小咋
(だいしょうさく?)
◇『出蔵帳』かつて東大寺の正倉院に納められていた金鏤宝剣。天平宝字三年(759)十二月二十六日、「次田」・陽宝剣・陰宝剣・銀荘御大刀の四口とともに出蔵され、以後戻らなかった。
宝剣壺切
(つぼきり)
◇『江談抄』
◇『続古事談』 etc.
歴代の皇太子に伝えられた重宝。もとは名将、藤原長良の剣で、藤原氏を母に持つ皇太子の宝物であったとも言う。そのため、藤原頼通は後三条院が皇太子だった時、この剣を献じなかったとか。皇居の火事で灰燼に帰したとも、刀身のみ焼け残ったとも言う。
霊剣破敵
(はてき?)
◇『中右記』
◇『世俗浅深秘抄』
内裏の宜陽殿にあった四十四柄の御剣のうち、霊剣とされた二腰のうちの一つ。この二腰は元は百済国から献じられたもので、歳次や名、十二神、日月五星等が刻まれていたという。このうち破敵は大将軍を派遣する際に節刀として授けられた。
三公闘戦之剣
(さんこうとうせんのけん?)
◇『禁秘抄』
◇『左大史小槻季継記』
◇『桃華蘂葉』
宮中に伝わる大刀契もしくは節刀の一部で、辛櫃に納められていた二柄の霊剣のうちの一つ。『季継記』によれば、神功皇后の御宇に百済国より献じられたもので、これを帯びていると凶賊敵兵は自ずから降伏したという。二柄とも天徳四年(960)に焼損した際は賀茂保憲が改鋳。寛治八年(1094)堀河内裏焼亡時に再び焼損している。また、「三公戦闘剣」「将軍剣」「破敵将軍剣」とも呼ばれる。
霊剣守護
(しゅご?)
◇『中右記』
◇『世俗浅深秘抄』
内裏の宜陽殿にあった四十四柄の御剣のうち、霊剣とされた二腰のうちの一つ。破敵は将軍に授けられたが、守護は御所に祗候した。この二腰は天徳四年の内裏焼亡時に一度焼け、備前国の鍛冶白根安生によって新造されたという。
日月護身之剣
(じつげつごしんのけん?)
◇『禁秘抄』
◇『左大史小槻季継記』
◇『桃華蘂葉』
宮中に伝わる大刀契もしくは節刀の一部で、辛櫃に納められていた二柄の霊剣のうちの一つ。『季継記』によれば、神功皇后の御宇に百済国より献じられたもので、病を悉く癒すことが出来たという。『桃華蘂葉』によれば、三十四柄の節刀のうち、霊剣とされる二柄のうちの一柄。二柄とも行幸の時には賢所(神鏡)に伴って奉遷されたが、建武の頃に紛失、新造したという。「日月護身剣」とも表記
※おまけキャプション4:『江談抄』に登場する名物一覧   


◆摂家の宝器
分類名称主な出典概要
霊刀小狐
(こぎつね)
◇『殿暦』
◇『台記』
◇『兵範記』 etc.
藤原摂関家相伝の野太刀。例えば、元永元年(1118)十月には藤原忠通が、保延二年(1136)十二月には藤原頼長(忠通猶子)が、仁平二年(1152)正月には藤原師長(頼長二男)が、同三年閏十二月には藤原兼長(頼長一男)が、これを帯びていたことが諸史料から知られる
◇『保元物語』
◇観智院本『銘尽』
保元の合戦の折、藤原実兼の子少納言入道信西(藤原通憲)が後白河天皇の御前で佩いていた家伝の太刀。観智院本『銘尽』は、この少納言入道信西の「こきつね」(小狐)を一条院の御宇の鍛冶、宗近の作とする。
◇『後愚昧記』応安三年(1370)八月、連歌会の最中であった九条経教亭の二階に雷が落ち、青侍二人が雷公のために震死。八条中将季興も病苦を得たが、前関白九条経教はこの大刀を抜いて雷公を打ち払ったので、無事であったという。
小狐の太刀
(こぎつねのたち?)
◇『戴恩記』九條家に伝わる三宝の一つ(ほかは大織冠の御影と恵亮の紺紙金泥法華経)。かつて菅原道真が雷となって御所をおそった時、藤原忠平が佩いていた。恐れる醍醐天皇が忠平にその日の番神を尋ねると、太刀の柄頭に白狐が現れたため、忠平は稲荷大明神(雷神の敵とされる)の御番であるのでご安心を、と答えた。程なくして雷は止み雨も晴れたという。
◇『和州布留大明神御縁記』白河院の御宇、山城国長池という所に大蛇が出て旅人を困らせた。帝が布留大明神に幣帛を捧げて祈祷させると数日後に蛇の死骸が池に浮かんだので、明神に種々の霊宝を寄付したが、その中にこの御剣が含まれていた。三條小鍛治が稲荷大明神と打ったもので、長さ二尺七寸。宝殿に安置されたという。
小狐丸
(こぎつねまる)
◇謡曲『小鍛冶』一条天皇の勅命により、三条の小鍛冶宗近が打った御剣。宗近ははじめ相槌がいないと断るが、氏神伏見稲荷に祈ると明神の化身たる童男が現れて相槌をつとめた。そのため、表に「小鍛治」、裏に「小狐」と銘打ったという。
◇民話「宝剣小狐丸」
〔奈良県天理市〕
小狐が刀鍛冶の弟子に化け、向こう槌を打って作った剣。布留に住む一人の婦人が、ある冬、菅田の森で乳がなくて困っている子をかかえた小狐に出会う。婦人が憐れに思い、毎夜通って子狐に乳をやると、狐はそのお礼にこの剣を婦人に贈った。婦人は狐の助力により、この剣を振るって大蛇を退治し、剣を布留明神に奉納。剣は今も石上神宮にあり、抜くと小狐の走る姿が現れるという。


◆平安朝の武士伝承
分類名称主な出典概要
名刀母子丸
(ぼこまる?)
◇『異制庭訓往来』余五将軍平維茂の剣(刀?)。『安齋随筆』では「ホコ丸」と訓じ、『吾妻鏡』に載る出羽城介繁茂の伝説を取り上げて、「慕狐丸か」とする。繁茂は生まれてすぐ行方不明になるが、四年後に狐塚で見つかる。この狐が繁茂に刀を授け、繁茂の七代裔孫城長茂はこれを帯びていたという。『吾妻鏡』はこの繁茂を維茂の息子とする。
宝剣朝日丸
(あさひまる)
◇『西行物語』大治二年(1127)、鳥羽院が鳥羽殿に行幸、歌人らを召して御所の障子絵を題に歌を所望された際、北面の武士だった左兵衛尉藤原義清(のちの西行法師)が、すぐに十首を奏上したことから、院より下賜された御剣。


◆酒呑童子退治譚
分類名称主な出典概要
名刀血すい
(ちすい)
◇『酒呑童子』一条天皇の頃、丹波の大江山(もしくは近江の伊吹山)に住む鬼、酒呑童子を退治しに向かった源頼光が、笈に隠して持って行った剣。慶大本によれば、太神宮より賜った重宝の太刀。嵯峨天皇の頃、坂上田村麻呂が伯耆国大原の五郎大夫「やすつな」(安綱?)という鍛冶に打たせたもの。田村麻呂が鈴鹿御前との戦いに用いたのもこの剣。高丸を退治した後、伊勢神宮に納めた。東洋大本では「血すい」、渋川版などは「ちすい」と表記。「血吸」か?
名刀蜘切
(くもきり)
◇『酒呑童子』 →◆剣巻:弐〜膝丸・薄緑〜
名刀鬼切
(おにきり)
◇『酒呑童子』 →◆剣巻:壱〜鬚切・鬼丸〜
名刀岩切
(いわきり)
◇『酒呑童子』一条天皇の頃、源頼光とともに酒呑童子退治に向かった藤原保昌が笈に隠して持って行った武器。東洋大本などによれば、元は小長刀であったのを柄を三束ほどに短くして打刀に変えたもの。柄は馬の毛でねた巻に巻いている。諸本により名称の異同が大きく、渋川版・鈴木本は「岩切」「いはきり」、東洋大本・島津本は「石割」「石はり」、慶大本・麻生本は「くわいけん」「懐釼」とする。また、慶大本によれば、「ひせん」(備前?)の国の鍛冶「すけひら」(助平?)が三年精進潔斎し、七重に注連を張って鍛えた秘蔵の太刀で、ある時、信州の戸隠山で変化を従えたのもこの剣であるという。
石割
(いしわり)
懐剣
(かいけん)
名刀いしきり◇『酒呑童子』一条天皇の頃、源頼光に従って酒呑童子退治に向かった四天王の一人、碓井貞光が笈に隠して持って行った太刀。ただし、慶大本にのみその名が見える。悪源太義平の「石切」の名を借りたか?
名刀なみきり◇『酒呑童子』一条天皇の頃、源頼光に従って酒呑童子退治に向かった四天王の一人、坂田金時が笈に隠して持って行った太刀。ただし、慶大本にのみ登場。「波切」か?
名刀あさまる◇『酒呑童子』一条天皇の頃、源頼光に従って酒呑童子退治に向かった四天王の一人、卜部季武が笈に隠して持って行った太刀で、「ひせん」(備前/肥前?)の国「よしをか」(吉岡?)の「もりつね」という鍛冶が打ったもの。ただし、慶大本にのみ登場。悪七兵衛景清の「あざ丸」の名を借りたか?
※おまけキャプション2:『酒呑童子』諸本に登場する刀剣名一覧(未完成)


◆田村将軍と立烏帽子
分類名称主な出典概要
霊剣そばやの剱
(そばやのつるぎ)
◇『鈴鹿の草子』
◇奥浄瑠璃『田村三代記』
etc.
坂上田村麻呂などをモデルとした伝説の英雄田村将軍の所持する剣で、立烏帽子(鈴鹿御前)や大だけ丸との戦いに用いられた。『鈴鹿の草子』『鈴鹿の物語』では「そはやのつるき」、『三代記』渡辺本は「そばやの剱」、青野・遠藤本は「草早丸」、鈴木本は「素早丸」と表記。
霊剣大通連
(だいつうれん)
◇『鈴鹿の草子』
◇奥浄瑠璃『田村三代記』
etc.
鈴鹿山に天下った天女(『田村三代記』では魔王の娘)立烏帽子(鈴鹿御前)の所持する三振の剣の一つで、文殊菩薩の化身、もしくは文殊の打った剣。『田村の草子』では天竺の阿修羅王が大だけ丸に贈った三振の剣の一つ。『鈴鹿の草子』『田村の草子』では「大とうれん」、『鈴鹿の物語』では「大とうれん」「たいとうれん」と表記。
霊剣小通連
(しょうつうれん)
◇『鈴鹿の草子』
◇奥浄瑠璃『田村三代記』
etc.
鈴鹿山に天下った天女、立烏帽子(鈴鹿御前)の所持する三振の剣の一つ。『田村三代記』では文殊菩薩の打った剣だとされる。『田村の草子』では天竺の阿修羅王が大だけ丸に贈った三振の剣の一つ。『鈴鹿の草子』などは「小とうれん」「せうとうれん」「ことうれん」と表記。
霊剣顕明連
(けんみょうれん)
◇『鈴鹿の草子』
◇奥浄瑠璃『田村三代記』
etc.
鈴鹿山に天下った天女、立烏帽子の所持する三振の剣の一つ。『三代記』では近江の湖の蛇の尾より取られた剣だとされる。『田村の草子』では天竺の阿修羅王が大だけ丸に贈った三振の剣の一つ。『鈴鹿の草子』などは「けんみやうれん」「さうみやうれん」「けむみやうれん」、『田村三代記』異本は「現明剱」「顕妙連」などと表記。


◆剣巻:壱〜鬚切・鬼丸〜
分類名称主な出典概要
霊刀鬚切
(ひげきり)
◇『平治物語』源氏重代の名刀。平治の合戦の折、源義朝の三男、右兵衛佐頼朝が佩いていた太刀。金刀本・古活字本によれば、頼義の子、八幡太郎義家が安倍貞任らを攻めた際、生け捕りにした千人の首を鬚ごと切ったことからその名がつけられた。古活字本によれば、奥州の文壽という鍛冶の作。
鬚切
(ひげきり)
  ↓
鬼丸
(おにまる)
  ↓
獅子の子
(ししのこ)
  ↓
友切
(ともきり)
  ↓
鬚切
(ひげきり)
◇『平家物語』「剣巻」源氏重代の名剣。経基王の嫡子多田満仲が筑前国から鍛冶を召して作らせた二振りの太刀のうちの一つ。鍛冶は宇佐八幡に参籠して剣の威徳を祈り、二尺七寸の剣を作った。人を切った際、鬚の一本も残さず切ったことからその名がつけられた。
満仲の嫡子摂津守頼光が、ある晩、郎党の渡辺綱を使に出し、護身のためにこの鬚切を貸し与えた。その際、綱が一条堀川の戻橋で若い女に変じた鬼の腕を切り落としたことからこれを「鬼丸」と改名した。綱は安倍晴明に従って物忌をするが、鬼は綱の養母に化けて腕を取り返しに現われ、腕を奪って逃げ去った。
剣は頼光から孫の頼綱、頼光の弟頼信の嫡子頼義、頼義の嫡子義家、義家の孫(養子)為義と伝わる。ある時、この鬼丸が夜通し、獅子の如く吠えたことからこれを「獅子の子」と改名した。
源為義の頃、「小烏」とともに障子に立てかけておいた所、倒れあって同士討ちし、二分ほど長かった「小烏」の中子を打ち切って同じ長さにしたためにこれを「友切」と改名した。後、嫡子義朝に譲られた。
保元の乱で為義と嫡子義朝は敵同士となり、負けた為義は斬られた。その後、平治の乱で朝敵となった義朝は都落ちし、「剣の威徳も劣りはてた悔しさよ。お見捨てになったか」と八幡大菩薩を恨んだ。すると夢に八幡が現れ「剣の威を軽んじ名を変えたからだ。特に「友切」の名は味方が滅ぶに等しい。昔の名に戻しなさい」と告げたため「鬚切」に戻し、子の頼朝に贈られた。
鬼切
(おにきり)
◇『太平記』源氏重代の太刀。摂津守頼光の太刀で、ある時、渡辺綱に託して大和国宇多郡の森に出るという化物を討たせた。その腕を切って帰った綱はこれを頼光に献上。頼光は占夢の博士に従って七日間の物忌をするが、老母に変じた化物(牛鬼)が腕を取り返しに現れる。頼光はこの首を件の太刀で切り落とし、太刀は後に多田満仲の手に渡って戸隠山で再び鬼を切ったことから「鬼切」と名づけたという。のち新田義貞の手に渡る。「剣巻」の「鬼丸」に当たるか?
ひけきり
(ひげきり)
  ↓
鬼切
(おにきり)
◇『酒呑童子』源氏重代の太刀。慶大本によれば、多田満仲が筑前国三笠郡の鍛冶「もんしゆ」(文壽?)に打たせたもの。「もんしゆ」は百日精進し、八幡の宝殿に参籠してこれを鍛えた。満仲が罪人を斬った際、鬚ごと斬ったことから「ひけきり」(鬚切)と名づけられ、嫡子頼光に相伝した。
一条天皇の頃、源頼光に従って酒呑童子退治に向かった渡辺綱が笈に隠して持って行った太刀。慶大本によれば、ある時、羅生門に変化が出ると聞いた頼光が、綱に「ひけきり」を貸し与え、羅生門に遣わした。綱は現れた鬼の腕をこの刀で切り落としたためこれを「おにきり」に改名した。東洋大本によれば、二尺あまりの打刀。
すなし
  ↓
友きり
(ともきり)
  ↓
ひけ切
(ひげきり)
  ↓
鬼切
(おにきり)
◇幸若舞曲『剣讃談』昔、天竺「よたう山」の「れううむ」という瀧に三尺の鉄の「まるかせ」があり、日夜人を悩ませた。ある時「しやりふむ」はこれを材料に八尺の長刀を打ったが、「かうかむ」が盗んで日本に伝えた。時の帝はこの長刀を二つに分け、太刀にせよと命じて二人の鍛冶「おくのまうふさ」と「三條のこかち」(小鍛治)に与えた。小鍛治はこれを三年三月で二尺七寸の太刀に鍛え、帝に献上したが、まうふさは三尺の太刀を打ってきたので、小鍛治は(短い分)鋼を盗んだと疑われ、土籠に幽閉された。帝はこの太刀を「すなし」と名づけた。
小鍛冶は無実を神々に訴えた。「すなし」はまうふさの打った「枕神」とともに立てかけてあったが、ひとりでに抜け出て「枕神」に打ちかかった。「枕神」もこれに応じて切りあったが、「すなし」は「枕神」の切っ先を三寸切り捨てて鞘に戻った。帝はこれを見て太刀の名を「友きり」に改め、小鍛治を許した。
その後、二振りの太刀は多田満仲の手に渡った。ある時、この太刀で罪人の首を斬ると、鬚ごと切ったので「ひけ切」と名を改めた。
その後、二振りの太刀は源頼光の手に渡った。ある時、この太刀で鬼の手を切ったことから「鬼切」と名を改めた。のち、義家、為義、義朝と源家嫡流に代々伝えられた。
髭切
(ひげきり)
  ↓
友切丸
(ともきりまる)
◇『土佐物語』 箱根の別当が仇討ちに向かう曾我五郎時宗に贈った兵庫鎖の太刀。もとは「髭切」と呼ばれ、「膝丸」とともに源氏重代の太刀だったが、後に「友切丸」と名を変え、左馬頭義朝の代に至って、鞍馬の毘沙門へ納められた。九郎義経がまだ牛若と呼ばれていた頃、毘沙門に祈誓、夢想を得てこれを手に入れるが、平家追討後、梶原の讒言によって腰越より追い返され、その祈願のため箱根に納められた。名前は「髭切」だが、『平家物語』等の「膝丸」に当たるか。
霊刀鬼丸
(おにまる)
◇『太平記』平家重代の太刀。北条時政のもとに小鬼があらわれて身心を苦しめた際、夢にこの太刀の化身たる翁が現れ、太刀を洗い清め錆を拭うよう教える。時政がこれに従い、太刀を抜身で枕元に立てかけておくと、火鉢の台につけられた銀製の小鬼に倒れ掛ってこの首を切り落とした。以来、時政は小鬼を見ることもなくなったことから「鬼丸」と名づけたという。高時の代まで平家嫡流に伝えられ、のち新田義貞の手に渡る。『平家物語』の「鬼丸」とは別の太刀か?
名刀鬼丸
(おにまる)
◇『太平記』元弘三年(1333)四月、幕府方の大手の大将として八幡・山崎の合戦に出陣した名越尾張守高家が佩いていた金作りの円鞘の太刀。北条氏の一流、名越氏累代の重宝。高家はこの合戦で赤松の一族、佐用左衛門三郎範家に射殺された。新田義貞の「鬼丸」とは別の太刀か?


◆剣巻:弐〜膝丸・薄緑〜
分類名称主な出典概要
霊刀薄緑
(うすみどり)
◇『平治物語』平治の合戦の折、左馬頭源義朝の次男、中宮太夫進朝長が佩いていた太刀。ただし陽明本には見えず、金刀本に「薄緑」、古活字本に「うすみどり」とある。
膝丸
(ひざまる)
  ↓
蜘蛛切
(くもきり)
  ↓
吠丸
(ほえまる)
  ↓
薄緑
(うすみどり)
◇『平家物語』「剣巻」源氏重代の名剣。経基王の嫡子多田満仲が筑前国から鍛冶を召して作らせた二振りの太刀のうちの一つ。鍛冶は宇佐八幡に参籠して剣の威徳を祈り、二尺七寸の剣を作った。人を切った際、両膝を一挙に薙ぎ切ったことからその名がつけられた。
満仲の嫡子摂津守頼光が熱病を患った際、空より下ってきた妖怪変化を枕元にあった膝丸で切りつけ、その血を追っていくと正体は蜘蛛であったことからこれを「蜘蛛切」と改名した。
剣は頼光から孫の頼綱、頼光の弟頼信の嫡子頼義、頼義の嫡子義家、義家の孫(養子)為義と伝わる。ある時、この蜘蛛切が夜通し、蛇の鳴くような声で吠えたことからこれを「吠丸」と改名した。のち、為義から娘婿の教真に与えられ、教真はこれを権現に奉納した。
熊野の教真の子田辺湛増は、為義より拝領した吠丸を十六歳になった源義経に贈った。その際、熊野の春の山を出たことからこれを「薄緑」と改名した。義経はこれを箱根へ奉納。建久四年(1193)、曾我兄弟の夜討ちの際、箱根の別当行実から五郎に与えられた。この時、鎌倉に召されて鬚切と再び一具となった。
膝丸
(ひざまる)
  ↓
蜘切
(くもきり)
◇謡曲『土蜘』源頼光が病に臥せっていた折、枕元に置いていた太刀。夜更けになって名も知らぬ怪僧が訪れたが、蜘蛛の如く幾筋もの糸で頼光を締め上げたので、この「膝丸」を抜いて斬りつけた。すると、姿がかき消すように失せたため、名を「蜘切」と改めた。家来が流れる血をたどって行くと、その正体は葛城山に住む年を経た土蜘(神武天皇に征伐された土着の民族の名(『日本書紀』))の精魂であった。土蜘はその場で退治された。
枕神
(まくらがみ)
  ↓
ひさ切
(ひざきり)
  ↓
ちちう切
(ちちゅうきり?)
◇幸若舞曲『剣讃談』昔、天竺「よたう山」の「れううむ」という瀧に三尺の鉄の「まるかせ」があり、日夜人を悩ませた。ある時「しやりふむ」はこれを材料に八尺の長刀を打ったが、「かうかむ」が盗んで日本に伝えた。時の帝はこの長刀を二つに分け、太刀にせよと命じて二人の鍛冶「おくのまうふさ」と「三條のこかち」(小鍛治)に与えた。まうふさは三年で三尺の太刀に鍛え、帝に献上。帝はこれを「枕神」と名づけた。その後、小鍛治の鍛えた二尺七寸の「すなし」とともに立てかけておいたところ、「すなし」がひとりでに抜け出て打ちかかり、切っ先を三寸切り落とされた。
その後、二振りの太刀は多田満仲の手に渡った。ある時、この太刀で罪人の首を斬ると、膝ごと切ったので「ひさ切」と名を改めた。
その後、二振りの太刀は源頼光の手に渡った。ある時、この太刀で変化の蜘蛛を切ったことから「ちちう切」(ちちう(ちちゅう)=蜘蛛)と名を改めた。のち、義家、為義、熊野別当教春の手を経て義経のものとなる。箱根別当が曽我時宗に与えた兵庫作りの太刀はこの太刀である。
蜘切
(くもきり)
◇『酒呑童子』一条天皇の頃、丹波の大江山(もしくは近江の伊吹山)に住む鬼、酒呑童子を退治しに向かった源頼光が、笈に隠して持って行った重代の太刀(ただし麻生本のみ)。大東急本(「くもきり」と表記)、東洋大本(「雲切」と表記)では名前が挙げられているだけで、実際に隠し持って行ったのは「ちすい」の方である。
てうか
(ちょうか?)
  ↓
蟲ばみ
(むしばみ)
  ↓
毒蛇
(どくじゃ)
  ↓
姫切
(ひめきり)
  ↓
友切
(ともきり)
◇『曾我物語』源頼光が刀工「ぶあく大夫」につくらせた二尺八寸の太刀。ある時、枕に立てかけておいた所、風に吹きうごかされて側にあった草紙三帖の紙七十枚を切ったことから「てうか」(漢字未詳のため意味取れず)と名づけた。のち、弟の頼信へ譲られる。
満仲の子源頼信の頃、「てうか」を抜くと五段(30間)四方にいる蟲の羽を切り落としたことからこれを「蟲ばみ」と改名した。「蟲ばみ」は「虫を喰(は)む物」の意。のち、子の頼義へ譲られる。
頼信の子頼義の頃、「蟲ばみ」がひとりでに抜け出て、地震や雷電で御所を騒がした地中の大蛇を四つ切りに切り倒したことからこれを「毒蛇」と改名した。のち、子の八幡太郎義家へ譲られる。
源義家が宇治を訪れた際、現れた橋姫の腕をひとりでに抜け出て切り落としたことからこれを「姫切」と改名した。のち、孫の六條判官為義へ譲られる。
義親の子為義の頃、この太刀より六寸ほど長い別の太刀とともに立てかけておいた所、夜ひとりでに切り合い、六夜目にしてその太刀を打ち切って自らと同じ長さにしたことからこれを「友切」と改名した。のち、為義の嫡子義朝が鞍馬の毘沙門天に納め、これを義朝の末子義経が入手。義経は戦勝を祈願して箱根山に奉納した。箱根別当行実が、仇討ちに向かう曾我五郎に贈った「兵庫鎖の太刀」はこの太刀。(「鬚切」伝承と「膝丸」伝承との混合が見られる)


◆剣巻:参〜小烏&抜丸〜
分類名称主な出典概要
霊刀小烏
(こがらす)
◇『平治物語』平治の合戦の折、太宰大弐平清盛の嫡子、左衛門佐重盛が佩いていた太刀。ただし、陽明本には見えず、金刀本、古活字本に「小烏」とある。
◇『平家物語』
◇『源平盛衰記』
桓武天皇の頃、内裏に八尺の霊烏が現れ、「太神宮より剣の使者に参った」と言って、御前に羽の下より一振の太刀を落とした。天皇は霊烏から出たものであるからと「小烏」と命名、代々内裏に伝えたが、平貞盛に下して以来、平家代々の重宝となった。
◇『平家物語』「剣巻」「吠丸」を教真に与えた後、源為義が「獅子の子」を手本にしてつくらせた太刀。目貫を烏の形につくらせたのでその名がある。「獅子の子」と瓜二つだったが、二分ばかり長かった。のち、為義の嫡子義朝に譲られ、義朝が殺された際に平家の手に渡った。
霊刀抜丸
(ぬけまる)
◇『平治物語』六波羅池殿で昼寝をしていた刑部卿忠盛に、池から現れた大蛇が襲いかかろうとした折、枕元に置いていたこの太刀が自然と鞘から抜け出、大蛇は恐れて水底に沈んだ。そのため、名を「抜丸」とした。平治の合戦では忠盛の子、三河守頼盛(清盛の弟)が所持し、兜をとらえた敵の熊手の柄をこの太刀で打ち切って命拾いした。古活字本によれば、伯耆国大原の眞守の作だという。
木枯
(こがらし?)
  ↓
抜丸

(ぬけまる)
◇『源平盛衰記』伊勢国鈴鹿山に住む貧男が太神宮に詣でた後、三子塚で手に入れた太刀。彼はこれを手に入れて後、猟をして獲物を逃がすことがなかった。ある夜、この太刀を大木に立てかけて眠ったところ、翌朝この木が古木の如く枯れ果てていたことから「木枯」と命名。後、伊勢守であった刑部卿平忠盛が、栗真庄の年貢三千石をもってこれを買い取った。
六波羅池殿で昼寝をしていた刑部卿忠盛に、池から現れた大蛇が襲いかかろうとした折、枕元に置いていた「木枯」が自然と鞘から抜け出、大蛇は恐れて水底に沈んだ。そのため、名を「抜丸」と改名した。平治の合戦では忠盛の子、三河守頼盛が所持し、兜をとらえた敵の熊手の柄をこの太刀で打ち切って命拾いした。
※おまけキャプション1:"源平の重宝"出典別一覧(準備中)


◆源平合戦譚
分類名称主な出典概要
霊刀鵜丸
(うのまる?)
◇『保元物語』保元の合戦の折、対馬守源義親の四男で祖父義家の養子となった六条判官為義が、崇徳院より賜った御剣。白河院が神泉苑に行幸し、御遊のついでに鵜をつかわせた際、特に逸物と聞こえる鵜が長覆輪の太刀をかつぎあげたので、「鵜丸」と名づけて秘蔵したもの。鳥羽院を経て崇徳院へと伝わった。古活字本に登場。
名刀泉水
(せんすい)
◇『平治物語』平治の合戦の折、源義朝の三男、右兵衛佐頼朝は美濃国青墓の長者大炊(義朝の愛人である遊女)のもとに潜んでいたところを捕縛、京に護送された。平清盛が太刀「鬚切」を所望すると、頼朝は青墓の長者のもとにあると答える。青墓に使者が送られるが、長者は「源氏重代の太刀が平家に取られるのは惜しい」として、これに劣らぬ「泉水」という太刀を「鬚切」と称して渡す。頼朝もこれに口裏を合わせ、清盛はこの「泉水」を「鬚切」と思って秘蔵したという。
名刀石切
(いしきり)
◇『平治物語』平治の合戦の折、左馬頭源義朝の嫡子、悪源太義平が佩いていた太刀。義平は越前に落ちのびるが、父義朝の討たれた後、京に戻り、捕らえられて六条河原で斬られた。しかし死して後、義平は雷となって自らの首を斬った難波三郎経房を打ち殺したという。
名刀祖師野丸
(そしのまる)
◇民話(「飛騨中山物語」)
〔岐阜県旧益田郡
悪源太義平の愛刀。萱野の祠にすむヒヒが年に一度、村の娘の人身御供を要求していると聞いた義平がヒヒを退治するのに用いた。この時、村人がこの刀を貰い受けて収めたのが金山町祖師野の八幡社の起こりだという。
宝剣師子王
(ししおう)
◇『平家物語』
◇謡曲『鵺』
近衛天皇の頃、源頼光の後胤兵庫頭頼政が、東三条の森から黒雲に乗って現れ天皇を悩ませた妖怪変化を見事射落とし、褒美として天皇より賜った御剣。『平家物語』元和版・正節本、謡曲『鵺』では「獅子王」と表記。『平家物語』によれば、頼政は二条天皇の頃にも鏑矢二本を使って鵼という怪鳥を射落としている。
◇『源平盛衰記』平治二年(1159)、源頼光の後胤兵庫頭頼政が、東三条の森から黒雲に乗って現れ二条天皇を悩ませた妖怪変化を見事射落とし、褒美として賜った鳥羽院より伝わる御剣。異説によれば、時は仁安元年(1166)、病に倒れたのは当時まだ皇太子だった高倉天皇であるという。
霊矢水破
(すいは)
◇『源平盛衰記』
◇『土蜘蛛』
兵庫頭頼政が、東三条の森から黒雲に乗って現れた妖怪変化を射落とすのに用いた二本の鏑矢のうちの一の矢。黒雲の真ん中を射ることで変化を驚かせ、鳴かせてその位置を確かめた。文殊菩薩が自身の双眼の瞳から作ったもので、元は文殊の化身、楚国の弓の名手養由のもの。黒鷲の羽で矧いでいる。
霊矢兵破
(びょうは)
◇『源平盛衰記』
◇『土蜘蛛』
兵庫頭頼政が、東三条の森から黒雲に乗って現れた妖怪変化を射落とすのに用いた二本の鏑矢のうちの二の矢。御殿の上の変化を見事射落とした。文殊菩薩が自身の双眼の瞳から作ったもので、元は文殊の化身、楚国の養由のもの。山鳥の羽で矧いでいる。
霊弓雷上動
(らいしょうどう)
◇『源平盛衰記』
◇『土蜘蛛』
兵庫頭頼政が、東三条の森から黒雲に乗って現れた妖怪変化を射落とすのに用いた弓。元は文殊菩薩の化身、楚国の養由のもので、二本の鏑矢とともに、養由の娘椒花女より摂津守頼光が夢中に授けられた。頼光より頼國、頼綱、仲政と代々相伝して頼政まで伝わった重宝。
名刀骨食
(こつしょく)
◇『源平盛衰記』兵庫頭頼政が、東三条の森から黒雲に乗って現れた妖怪変化を射落とす際に連れていた郎等の一人、遠江国住人早太に佩かせていた太刀。諸本により「ほねくい」「ホネカミ」とも読む。
宝刀竹現
(たけうつつ?)
◇『平家物語』大納言藤原成親が備前国に流される際、住吉大明神に子息の平安を願い、願書とともに奉納した重代の太刀。奉納後、神剣となり、宝蔵第一の重宝になったという。長門本に登場。
宝剣河霧御剣
(かわぎりのぎょけん)
◇『源平盛衰記』平家都落ちの際、大納言平時忠が印鎰、時の簡、琵琶「玄象」、和琴「鈴鹿」などとともに持ち出すように指示した御剣。ただし、「河霧御剣」を「河霧、御剣」と解釈すれば、剣ではない可能性が生じる。『江談抄』には「河霧」という名の和琴が載る。
名刀秩父ガカウ平
(ちちぶがこうひら)
◇『源平盛衰記』武蔵国住人、秩父氏末流の畠山次郎重忠の佩刀。備前造、長さ三尺九寸、幅四寸の大太刀。宇治川の合戦では、木曽義仲の従弟、信濃国住人長瀬判官代義員を相手にこれを抜くが、義員は恐れて引き退き、都に向かって落ちて行ってしまった。
名刀あざ丸
(あざまる)
◇謡曲『大仏供養』平家の遺臣悪七兵衛景清が、奈良の大仏供養の場で源頼朝を討とうと、白張浄衣の姿で忍び隠れていた際に所持していた太刀。しかし、景清は頼朝の臣に見咎められ、正体がばれてしまう。そのためこの太刀を抜き、切りかかってきた若武者を一人討ち取って、隠行の術により何処かへ姿を消した。
※おまけキャプション3:軍記物に登場する器物・動物名前一覧   


◆源義経伝承
分類名称主な出典概要
名刀今剣
(いまのつるぎ)
◇『義経記』大夫判官源義経が、自害する際に用いた六寸五分の刀。三条小鍛冶が鞍馬寺に奉納したもので、鞍馬の別当が「今剣」と名付けて秘蔵していたが、幼い頃鞍馬へ預けられた義経に守り刀として与えられた。
名刀岩透
(いわとおし)
◇『義経記』大夫判官源義経の家臣武蔵坊弁慶の刀、もしくは太刀。小溝太郎との大物浦における海上戦、吉野山での逃亡劇、山伏に扮しての北国落ちの場面にその名がみえる。読みは「いわどおし」とも。
名刀蝉丸
(せみまる)
◇民話(『小国郷夜話』)
〔山形県最上郡〕
瀬見温泉の地名由来譚に語られる弁慶の薙刀。平家追討の後、源義経主従が奥州に落ちる途中、亀割峠で義経の北の方が急に産気づく。弁慶は産湯に使う水を探して沢に降り、そこで湯煙を見つけて薙刀で掘り出す。これが瀬見の湯で、その名はこの薙刀の名からとったという。ただし、「瀬見」の名の由来には他にも諸説ある。
名刀つららい◇『義経記』藤原鎌足の末裔、佐藤四郎兵衛藤原忠信が、主である大夫判官源義経の身代わりになって、一騎吉野に留まった際に佩いていた三尺五寸の太刀。藤原不比等より伝わったもの。「氷柱井」か? ただし、版本は「つつらい」、『義経物語』は「つづらい」。


◆曾我兄弟仇討伝説
分類名称主な出典概要
名刀友切
(ともきり)
◇『曾我物語』箱根別当行実が、仇討ちに向かう曾我五郎時宗に贈った兵庫鎖の太刀。
 →◆剣巻:弐〜膝丸・薄緑〜
友切丸
(ともきりまる)
◇『土佐物語』箱根の別当が、仇討ちに向かう曾我五郎時宗に贈った兵庫鎖の太刀。
 →◆剣巻:壱〜鬚切・鬼丸〜
名刀雲おとし
(くもおどし?)
◇『曾我物語』 etc.木曾義仲三代相伝の三宝の一つで、義仲の子清水冠者が箱根山に奉納した太刀。十行古活字本は「雲おとし」、万法寺本・大山寺本では「くもおち」と表記。「蜘蛛威し」「蜘蛛怖ぢ」か?
名刀微塵
(みぢん)
◇『曾我物語』 etc.箱根別当行実が、仇討ちに向かう曾我十郎祐成に贈った鞘巻(鍔のない短刀)。木曾義仲三代相伝の三宝の一つで、義仲の子清水冠者が箱根山に奉納したもの。どんな物でも刺し通すことからその名があるという。
名刀奥州丸
(おうしゅうまる)
◇『曾我物語』曾我十郎祐成が仇討ちの際に帯びていた太刀。元は平知盛の太刀で、屋島の合戦の際、船中に取り忘れてあったのを曾我太郎祐信が見つける。源義経に献上したが、義経は祐信に取らせ、後、祐成元服の際に継父である祐信から贈られた。
霊刀瀬登り
(せのぼり)
◇『土佐物語』曾我十郎祐成が箱根に残していった形見の太刀。兄弟の死後、頼朝を恐れた別当はこれを持って土佐へ逃げるが、江尻で太刀を宮寺に納めるよう遺言して亡くなる。宿の主はこれを売って金儲けをしようとするが、太刀は自然に抜けて川に飛び入り、大蛇となって川上へ登ってしまう。その後、この大蛇が往来の人を悩ませたため、遺言に従い宮を建てて鞘を祭ると、太刀はいつの間にか鞘に戻ったという。


◆南北朝の動乱
分類名称主な出典概要
名刀面影
(おもかげ)
◇『太平記』元弘三年(1333)五月、鎌倉炎上の時に長崎三郎左衛門入道思元の子、勘解由左衛門為基が佩いていた三尺三寸の太刀。来太郎国行が、百日精進したのち、百貫の鉄から打ち出したもの。明日冥土での再会を約束して父と別れた為基は、この太刀を振り回して新田義貞の軍勢を追い散らしたが、その後の生死は知られていない。


◆中世の説話・記録
分類名称主な出典概要
宝刀ウスサマ◇『山科家礼記』小笠原家重代の刀。小笠原家は小笠原長清を祖とする清和源氏の後裔。『山科家礼記』文明九年(1477)記に見えるが、名称の由来については言及がない。仏教の「烏枢沙摩」明王か。
宝刀鵜噬
(うくい)
◇『蔭凉軒日録』吉見家重代の刀。文明十四年(1482)、大内邸での酒宴の際に陶弘護を殺した吉見信頼が所持していた。長さ七尺五寸。昔、吉見家の先祖が河で漁をしていたところ、河中に落としてしまい、三年後、鵜を使った時に、その鵜がこれを口に含んで水底より上ってきたので、その名がついたと言う。
宝刀千鳥
(ちどり?)
◇『実隆公記』徳大寺家重代の太刀。徳大寺実定(1139-91)が旧都(福原遷都中の京都)での月見の際にこれを帯びていたが、取り落としてしまったところ、水に浮かんだことからその名がつけられたと言う。無銘だが小鍛治の作とされる。


◆戦国・江戸初期の説話・史話
分類名称主な出典概要
名刀姫切
(ひめきり?)
◇『新著聞集』毛利元就の次男吉川元春の所持していた脇指。ある晩、元就を訪ねた元春の後から、元春の娘がついてきた。(不審に思った元春が)抜き討ちに斬りつけると女は足早に逃げ去り、血を追っていくと岩穴の中に至った。地を掘り崩してみたところ、女が死んでいたので、この脇指を姫切と名付けたという。
名刀火車切
(かしゃぎり?)
◇『新著聞集』松平五左衛門が所持していた刀。五左衛門の従弟の葬礼の際、四方に雷電が閃き、龕の上にかかった黒雲から熊の手のようなものが出てきた。五左衛門が抜きうちにこれを切り落とすと、その手には怖ろしい爪が三つ付き、銀の針のような毛が生えていた。以来、この刀を火車切と名付けたという。
名刀笹剪
(ささぎり?)
◇『寛政重修諸家譜』松平清康(家康の祖父)に仕えた植村新六郎某が、清康及び広忠と敵対した者を討ち取った時に用いた吉岡一文字の刀。故あって本多中務大輔忠良の家蔵になるが、享保十九年(1734)、幕府が召し取って新六郎某の子孫、植村出羽守家包に与え、忠良には家包の所持していた中心に本多平八郎と彫った了戒の刀を与えた。
名槍梅實
(うめのみ?)
◇『寛政重修諸家譜』今川義元が徳川家康(当時は次郎三郎元信もしくは松平元康?)に贈った鎗。ある日、義元は梅の実を突き試みた鎗を家康に贈り、梅の穂を貫いた鎗を阿部正勝に与えた。これを喜んだ家康は、その鎗を梅實と名づけた。
名槍梅穂
(うめのほ?)
◇『寛政重修諸家譜』今川義元が幼少より徳川家康に仕えた阿部正勝に与えた鎗。ある日、義元は梅の実を突き試みた鎗を家康に贈り、梅の穂を貫いた鎗を正勝に与えた。これを喜んだ家康は、正勝に鎗を梅穂と名づけるよう命じた。
名刀赤小豆粥
(あづきがゆ)
◇『常山紀談』
◇『煙霞綺談』
上杉謙信秘蔵の太刀三腰のうちの一振り。『煙霞綺談』によれば、三尺一寸で鎌倉行光の作。川中島で武田信玄と打ち合った際の太刀だといわれる。
名刀谷切
(たにきり)
◇『常山紀談』
◇『煙霞綺談』
上杉謙信秘蔵の太刀三腰のうちの一振り。『煙霞綺談』によれば、来国俊の作。
霊刀竹股兼光
(たけまたかねみつ)
◇『常山紀談』
◇『煙霞綺談』
上杉謙信秘蔵の太刀三腰のうちの一振り。元は越後の百姓が持っていたもの。ある時山中で烈しく雷が鳴ったので、この刀を頭上にさし当てて目を閉じ、空が晴れてから刀を見ると切っ先が血に染まっていたという。またある日、大豆を袋に入れて帰る途中、袋の綻びよりこぼれた大豆が鞘にあたると二つになった。怪しんで見ると鞘に破れがあり僅かに出た刃に当たっていたのだった。これを聞いた竹俣三河守は刀を乞い取り、後に謙信が秘蔵した。景勝の時、京で研がせたところ偽物とすり替えられたが、竹俣が京まで探しに行き清水で発見。その後、秀吉に献じられた。
名刀笹刀
(ささがたな?)
◇『最上義光物語』羽州最上家重代の貞宗の太刀。『最上義光物語』によれば、義光が十六歳の時(従って永禄四年(1561))、父義守と湯治に高楡を訪れ、盗賊の夜討ちに遇う。近習が応戦する中、義光も盗賊二人に手傷を負わせ、一人を刺し殺した。これを見た義守は翌日この太刀を手ずから譲り渡したが、義守も十七歳の時、楢下江で誉を得、その場でこの太刀を譲り得たのだという。なお、『奥羽永慶軍記』では、刀名の他、場所が高湯、義光が賊将を討つ、太刀はその夜のうちに与えられるなどの小異が見られる
笹切
(ささぎり?)
◇『奥羽永慶軍記』
名槍人間無骨
(にんげんむこつ?)
◇『甲子夜話』織田信長に仕えた森武蔵守長可の槍。敵の首を鋒に刺し、槍を立てて一突きすると、首が柄を貫き降りて石突に至るほど刃が鋭かったという。大きな十文字槍で直刃のけら首から鋒までが一尺二寸二分、横手刃端の見渡しが一尺一寸、表に「人間」、裏に「無骨」と刻まれ、茎には「和泉守兼定」の銘があった。
名刀和田のつるまち
(わだのつるまち)
◇『長野先生夜話集』和田昭為の三男善九郎が最期に所持していた名剣。和田昭為は佐竹氏の家臣だったが、車丹波の讒訴により、佐竹義重から討伐の命が下された。昭為自身は国を去り、難を逃れたが、当時15歳だった善九郎は宇留野源兵衛の手下に殺された。
名刀茶臼割
(ちゃうすわり
◇『加沢記』
◇『羽尾記』
上州吾妻三原の地頭滋野氏の末葉、羽尾氏重代の太刀。『加沢記』によれば、天正九年(1581)、海野長門守幸光・能登守輝幸の兄弟は、本家の真田昌幸に謀反の疑いをかけられる。昌幸は弟の隠岐守昌君らを討ち手とし、まず岩櫃城の幸光を討つ。沼田城の輝幸は申し開きをしようとこの太刀を佩き、嫡子中務太輔幸貞らと城を出るが、昌君らはこれに打ってかかり合戦に。輝幸はこの太刀で木内八右衛門尉、田口又左衛門を討ち取るが、最期は幸貞と差し違えて果てたという。『羽尾記』はこれを天正七年のこととし、刀は「茶磨破」と表記、備前長光の作とする。
霊槍小たいまつ
(こたいまつ)
◇『加沢記』天正十年(1582)、沼田城をめぐる北条軍との合戦に矢沢薩摩守頼綱が携えていた滋野重代の鎗。阿曾の用害への夜討ちでは、松明の如く光を放って敵を照らし出した。元は頼綱の父海野信濃入道棟綱が、信濃国虚空蔵山に住んで人々を悩ませた鬼神を退治しようと、水内郡八幡宮へ祈誓した際に授かったもの。鬼神は退治され、頼綱13歳の初陣であった村上頼平との合戦の時、棟綱から贈られた。
名刀莞爾
(かんじ
◇『丹羽家譜伝』
◇『丹羽家譜』
天正十一年(1583)、元服した丹羽長重に羽柴秀吉が手ずから与えた青江の刀。かつて柴田権六が帯びていた名刀で、長重の父丹羽長秀が権六を捕らえた時に手に入れ、秀吉に贈ったもの。人を斬るのに竹を割るようで、斬られた者はそれと気付かず、振り返って完爾として笑い、六、七十歩行ったところで身体が二つに分かれたことからその名が付けられた。
名刀龍ノ子
(りゅうのこ?)
◇『奥羽永慶軍記』南部氏の一族で九戸城主、九戸左近将監政実の太刀。三尺五寸。三戸城の南部信直に反旗を翻した政実は、天正十九年(1591)、秀吉の派遣した蒲生氏郷、浅野長政、堀尾吉晴、井伊直政ら討伐軍に南部信直を加えた大軍と戦うことになる。この時、政実が佩いていたのがこの太刀。
名刀岩切
(いわきり?)
◇『奥羽永慶軍記』九戸氏に始祖九戸五郎行連より伝わる重代の大太刀。天正十九年、秀吉の派遣した討伐軍との合戦において、九戸政実は「龍ノ子」を佩き、この大太刀を右手に抱えて戦う。無事本城に戻った政実は籠城するが、浅野長政らの謀にかかって城を出、九戸城は落とされた。城中の者は一人残らず殺され、政実自身も斬首された。
名刀甲破
(かぶとわり?)
◇『小笠原系図』
◇『寛政重修諸家譜』
小笠原家重代の太刀。天文十九年、挙兵した信濃国守護の小笠原長時は、村上義清とともに逆臣らの城を落とし、馬場民部信英・日向大和昌時らの籠もる深志城に迫る。しかし、武田晴信の侵攻により、義清が約を違えて帰城。これに驚き、武田の大軍に怯えた長時勢は崩れ、千騎に満たない数となる。この時、長時は自ら敵十八騎を斬って落とし、その甲の鉢を数多切り割ったので、以来この太刀を甲破と号した。『寛政重修諸家譜』によれば、太刀には「千代鶴」の銘があったという。
名槍蜻蜓切
(とんぼうきり?)
◇『藩翰譜』
◇『常山紀談』 etc.
本多平八郎忠勝の持っていた槍。飛んで来た蜻蛉が触れただけで切れたことからその名が付いたという。柄は太くて長さが二丈もあり、螺鈿で飾られていた。忠勝晩年には柄を三尺ばかり切り捨て、人が怪しむと「兵仗は、おのが力をはかりて用ゐるべきものなり」と答えたという。『常山紀談』では「蜻蛉斬(とんぼうきり)」と表記
名刀南山
(なんざん)
◇『常山紀談』朝鮮出兵の折、黒田長政の臣、菅政利(六之助)が虎退治をした刀。周処白額虎の故事(周処は三国時代の豪傑。腕力暴強で南山の白虎、長橋下の蛟と合わせて三害と言われたが、志を改めて虎と蛟を退治した)から林羅山が銘を作って南山と名付けた。また、一説には二尺三寸で、備前吉次が作。大徳寺春庵和尚は、その刀に斃秦と名付けたという。
斃秦
(へいしん)
名刀釣切
(つりきり)
◇『太閤記』
◇『寛政重修諸家譜』
慶長三年(1598)に豊臣秀吉が亡くなった後、家臣であった谷出羽守衛友に秀吉の遺品として下賜された脇指。
名刀大波
(おおなみ?)
◇『織錦舎随筆』木村長門守が義兄の猪飼野左馬介に宛てた書札(京都大通寺塔頭多聞院什物)によれば、長門守が十三歳で元服した折、祝儀として家康より贈られた太刀。この時、使者となった本多平八(忠勝)曰く、家康秘蔵の大業物で来国俊の作。長門守が数度の戦に携え、一度も不覚を取らなかったが、左馬介に自らの形見として進呈するという。なお、長門守は大阪夏の陣で井伊直孝の軍勢と戦い敗北、討死している。
名刀夢切
(ゆめきり?)
◇『秋田昔物語』常陸に生まれ、改易で秋田藩主となった佐竹義宣の脇差。ある時、寝ていた義宣は夢心に何かに脅かされ、夢心にそれを切った。翌朝見るとこの脇差に血がついており、天井を調べたところ、二つになった大猫が出てきたことからその名が付けられた。
宝刀蜻蚓之太刀
(こおろぎのたち?)
◇『湯川彦右衛門覚書』紀州熊野の湯川家が、節頭・傘袋・毛氈の鞍覆・母衣・赤地の錦の直垂とともに禁中より拝領した太刀。「蜻蚓之太刀」に「コウロキノ」とのルビを付すものの他に、ルビなしで「蜻蜓之太刀」と表記する伝本もある。後者なら「とんぼのたち」か?


◆偽書『江源武鑑』
分類名称主な出典概要
宝刀下霜
(おろしも)
◇『江源武鑑』千葉氏重代の太刀。貞宗の作。天文七年(1538)五月二十三日、庶子輝胤に所領を押領され、六角氏に三百貫を与えられた千葉刑部少輔清胤は、これを六角義実に献上した。しかし、義実は受け取らず、子孫に伝えるようにと言って清胤に返した。
宝刀藤壷
(ふじつぼ)
◇『江源武鑑』雲州尼子氏重代の太刀。天文七年六月二十八日、須佐越後守を通して、六角氏綱の嫡男義実に献上された。源頼朝が出雲の元祖佐々木義清に与えたもので、石橋山の合戦の時にも佩かれていたという。
宝刀朽木丸
(くつきまる)
◇『江源武鑑』朽木出羽守義綱より伝来する朽木氏重代の太刀。天文八年四月五日、朽木民部太輔稙綱から六角義実に献上されたが、義実は受け取らず、子孫に伝えるようにと言って稙綱に返した。
名刀虎風
(とらかぜ)
◇『江源武鑑』京極三郎高勝の形見の太刀。天文八年四月十八日、高勝が卒し、その形見として、王摩詰の山水画とともに六角義実に献上された。京極氏は、佐々木信綱の四男氏信を祖とする佐々木氏の一流。
名刀山蜘
(やまぐも)
◇『江源武鑑』天文九年五月二十日、室町将軍足利義晴より六角義実に下賜された太刀。同日、合わせて播州明石郡と賀古郡佐用庄、名馬白波、美作国英田郡と勝田郡が義実に与えられたが、これは同月十五日にあった義晴長女の義実への輿入れを受けたもの。
宝刀綱丸
(つなまる)
◇『江源武鑑』六角氏重代の太刀。天文九月五月二十八日、前日に上洛した六角義実は室町将軍足利義晴に、白銀一千枚、綾百巻、鞍置馬十匹、江州長浜の諸白酒十樽ともにこの太刀を献上した。
宝刀虎御前
(とらごぜ)
◇『江源武鑑』近江佐々木氏の一流、京極氏重代の太刀。天文十年四月十日、京極高秀より、同月八日に生まれたばかりの六角義実の御曹子(母は室町将軍足利義晴の長女)に献上されたもの。
名刀万歳
(ばんせい)
◇『江源武鑑』天文十年四月二十日、将軍足利義晴より、六角義実の御曹子に下賜された太刀。この時、観音寺城への御使となったのは上野丹後守晴時で、義実の奥方(義晴の長女)には綾五百巻、白銀千枚、将軍家の重宝である延命久保散という薬が贈られた。
名刀三沢丸
(みさわまる)
◇『江源武鑑』天文十年四月二十八日、雲州の尼子左衛門督より、須佐兵部少輔光綱を通して、六角義実に献じられた太刀。御曹子の誕生を祝したもので、この時、あわせて伯耆栗毛という名馬も献上された。
名刀蜘太刀
(くもたち)
◇『江源武鑑』駒井伊賀守貞勝の形見の太刀。天文十年五月二十六日、貞勝が四十九歳で卒去。その形見として、この太刀(「駒井ノ蜘太刀」)が六角義実に献上された。『江源武鑑』巻一によれば、駒井氏は六角満高の二男高郷を元祖とする佐々木氏の庶流。
宝刀貞林
(ていりん)
◇『江源武鑑』佐々木氏の一流、黒田氏相伝の太刀。正宗の作。昔、比叡山の貞林房という沙門がこの太刀で数度天狗と戦ったが、天狗はこの太刀を奪って貞林房を殺し、太刀を黒田の祖宗清に与えたという。天文十三年十一月十五日、黒田大学頭宗綱が六角義実に献上しようとしたが、義実は家門の宝は家にあってこそ、と言って宗綱に返した。
宝刀高田丸
(たかだまる)
◇『江源武鑑』天文十五年五月二十日、山中礒貝より六角義実に献じられた太刀。赤松満祐より赤松氏に相伝した太刀であったが、近年その子孫が流人となり、礒貝に与えられたものという。山中氏は佐々木定綱の八男頼定を元祖とする佐々木氏の庶流。
宝刀近江万歳
(おうみまんざい)
◇『江源武鑑』六角氏に代々伝わる重宝の太刀。国次の作。天文十六年二月十八日、六角義実より、一足という芦毛馬とともに、前日征夷大将軍に任じられた足利義輝に献じられた。この時、義実は近江宰相従三位に補任され、北陸道の管領職を賜った。
宝刀剣龍
(けんりょう)
◇『江源武鑑』足利尊氏の太刀。尊氏はこの太刀を以て足利の家を興し天下を治めたと伝わる。天文二十年三月二十七日、室町将軍足利義輝より六角義実に与えられるが、義実は固辞して受け取らなかったという。
宝刀藤戸丸
(ふじとまる)
◇『江源武鑑』藤戸合戦において佐々木盛綱が平行盛を討つため海上を押し渡った時に佩いていた太刀。盛綱の子孫に相伝し、十一代の飽浦美作守信清が、頼朝在判の書翰一通とともに錦の袋に入れ、天文二十二年十二月二十四日、六角義実に献じた。
宝刀万歳丸
(まんさいまる)
◇『江源武鑑』弘治元年(1555)三月四日、前日に六角義実より家督を譲られた嫡男義秀に、箕作義賢が献上した名物の太刀。国次の作。なお、『江源武鑑』において義賢は(通説と異なり)自身が六角氏当主ではなく当主義秀の後見とされる。
宝刀宇治河
(うじがわ)
◇『江源武鑑』佐々木高綱が宇治川の合戦で佩いていた太刀。国俊の作。高綱の子孫に相伝したが、永正年中に大野木越前守が六角氏綱に献じたのを、氏綱は先祖も庶流の佩いた太刀だからといって末子の八幡山義昌に与えた。弘治元年三月四日、義昌はこれを前日に六角義実より家督を譲られた嫡男義秀に献上した。
宝刀足利丸
(あしかがまる)
◇『江源武鑑』度々の忠戦により足利高氏が佐渡判官道誉(京極道誉)に贈った太刀。その名は道誉が贈り主の名を取って付けたものという。正宗の作。弘治元年三月四日、前日に六角義実より家督を譲られた嫡男義秀に、京極武蔵守高秀が献上した。
室町将軍家代々の重宝の太刀。三尺二寸で正宗の作。佐々木家が秘蔵していたが、弘治三年十月二十八日、参内した将軍足利義輝が、前日に即位した正親町天皇に献上した。弘治元年、京極高秀が六角義秀に献じたものと同一の太刀か。
宝刀龍尾
(りゅうび)
◇『江源武鑑』弘治元年三月四日、前日に六角義実より家督を譲られた嫡男義秀に、高嶋越中高泰が献上した名物の太刀。貞宗の作。高嶋氏は佐々木信綱の二男高信を元祖とする佐々木氏の庶流。
永禄九年(1566)三月三日、佐々木神社の祭礼の日に、足利義昭は近習を連れて同社に参詣したが、これを喜んだ六角義秀が義昭に進上した太刀。弘治元年、高嶋高泰が六角義秀に献じたものと同一の太刀か。
宝刀山虵
(さんじゃ)
◇『江源武鑑』弘治元年三月四日、前日に六角義実より家督を譲られた嫡男義秀に、永原大炊頭実高が献上した名物の太刀。信国の作。『江源武鑑』巻一によれば、永原氏は六角政頼の二男高賢を元祖とする佐々木氏の庶流。
宝刀白龍
(はくりゅう)
◇『江源武鑑』弘治元年三月四日、前日に六角義実より家督を譲られた嫡男義秀に、大原中務大輔高保が献上した名物の太刀。一文字の作。なお、大原高保は六角高頼の三男なので、義実の叔父、義秀の大叔父に当たる。
宝刀血吸
(ちすい)
◇『江源武鑑』弘治元年三月四日、前日に六角義実より家督を譲られた嫡男義秀に、梅戸左近大輔高実が献上した名物の太刀。正恒の作。なお、梅戸高実は六角高頼の四男なので、義実の叔父、義秀の大叔父に当たる。
宝刀朽木
(くつき)
◇『江源武鑑』弘治元年三月四日、前日に六角義実より家督を譲られた嫡男義秀に、朽木宮内大輔貞綱が献上した名物の太刀。長義の作。天文八年に朽木民部太輔稙綱が六角義実に献上しようとした朽木氏重代の朽木丸と同一の太刀か。
宝刀銅炎
(どうえん)
◇『江源武鑑』弘治元年三月四日、前日に六角義実より家督を譲られた嫡男義秀に、種村刑部少輔氏秀が献上した名物の太刀。助宗の作。『江源武鑑』巻一によれば、種村氏は六角政頼の三男高成を元祖とする佐々木氏の庶流。
宝刀大龍
(たいりゅう)
◇『江源武鑑』弘治元年三月四日、前日に六角義実より家督を譲られた嫡男義秀に、蒲生右兵衛太夫氏方が献上した名物の太刀。月山の作。蒲生氏は藤原秀郷の後裔というが、のち近江蒲生郡に移住、当時は六角氏の重臣となっていた。
宝刀飛龍丸
(ひりゅうまる)
◇『江源武鑑』六角氏に伝わる重宝の太刀。佐々木大明神より代々家督を譲る際に渡されてきたもの。弘治元年三月五日、六角義実より、同月三日に家督を継いだ嫡男義秀に、江龍の鎧、二尊の御旗、団扇、采配などとともに、馬渕を使者として譲り渡された。
宝刀石龍
(せきりゅう)
◇『江源武鑑』室町将軍家に伝わる重宝の太刀。北山での御遊の際、東山殿(足利義政)が石で作られた龍に驚き、太刀を抜き斬りつけたところ、半ばまで斬れたことから、この名を付けたと伝える。鞘には義政により古歌一種が書き付けられていた。弘治元年三月十五日、家督を継いで上洛した六角義秀に将軍足利義輝が下賜した。
名刀虵頭
(じゃとう)
◇『江源武鑑』弘治元年十二月四日、箕作定頼の嫡男義賢に羽根田の鎧とともに与えられた太刀。これは六角氏綱の没後、弟定頼が義実の後見を務めた先例に準じ、義賢を若年の義秀の後見とするため、この日より義賢を義実の連枝(兄弟)と号したことに伴うもの。
名刀白波
(しらなみ)
◇『江源武鑑』永禄三年(1560)十一月四日、箕作義賢入道承禎が六角義秀に献上した太刀。これは同年十月二十九日、浅井長政らの計らいにより、織田信長の息女が義秀へ輿入れしたことを祝してのものだが、承禎はこの輿入れをこころよく思っていなかった。
宝刀龍華
(りゅうか)
◇『江源武鑑』永禄三年十一月六日、六角義秀へ織田信長の息女が輿入れしたのを祝し、細川兵部大輔藤孝を上使として、将軍足利義輝が義秀に下賜した太刀。元は江陽家(六角氏)随一の重器で、先代の六角義実が前将軍足利義晴に進献したもの。
名刀龍頭丸
(りゅうとうまる)
◇『江源武鑑』永禄八年五月十七日、箕作承禎・義弼父子の謀反が噂される中、起請文を灰にして飲み、逆心のないことを示した江州の旗頭たちに対し、六角義秀はこの太刀を抜いて佐々木大明神に呼びかけ、家臣に対して疑心を起こし心を隔てないと誓った。
宝刀小虎
(ことら)
◇『江源武鑑』赤松家重代の脇指。吉光の作で天下無双の一腰という。永禄十一年九月二十八日、足利義昭を奉じた六角義秀・織田信長の軍勢に降伏した松永弾正少弼・同右衛門佐父子が、義昭に進上したもの。
名刀国武丸
(くにたけまる)
◇『江源武鑑』永禄十一年十月二日、足利義昭を奉じた六角義秀・織田信長の軍勢に降伏した、三好笑岩の旗奉行池田筑後守政久が義秀に献上した太刀。信長には名馬龍尾が献じられた。池田城に立て籠もっていた政久を攻めたのは江陽七手組。
名刀龍尾
(りょうび)
◇『江源武鑑』永禄十二年四月七日、六角義秀より、足利義昭に馬三匹、黄金千両とともに進上された太刀。弘治元年、高嶋高泰が六角義秀に献じた龍尾(りゅうび)、永禄九年、六角義秀が足利義昭に献じた龍尾(りゅうび)と同一の太刀か。
宝刀山虵
(さんじゃ)
◇『江源武鑑』今川氏重代の太刀。清和天皇十二代義氏の二男長氏の三男今川四郎国氏より伝わる。桶狭間の戦で今川義元が討死した際、服部民部という者がこれを取って織田信長にささげた。永禄十二年四月七日、信長から足利義昭に進上された。
名刀万歳丸
(まんさいまる)
◇『江源武鑑』元亀元年(1570)十二月十二日、勅意によって織田信長と和睦した六角義秀に、この和睦を祝し、上野中務大輔清信を上使として室町将軍足利義昭が贈った太刀。弘治元年(1555)に箕作義賢が六角義秀に献上した同名の太刀とは別の太刀か
名刀龍ノヒケ
(りゅうのひげ)
◇『江源武鑑』元亀二年正月二十三日、六角義秀の名代として山州の愛宕神社に参詣した朽木信濃守元綱に、義秀が下賜した脇差。後に元綱は義秀の病気平癒を祈願して、この脇差を佐々木神社へ奉納した。
宝刀赤坂丸
(あかさかまる)
◇『江源武鑑』黒田氏重代の太刀。元亀二年三月二十七日、備前から江州を訪れた黒田美濃守識隆は、進藤山城守を介して観音寺城へ出仕。六角義秀に拝謁し、子々孫々に至るまで忠義を尽くすことを宣言して、この太刀を献上した。
※おまけキャプション5:『江源武鑑』に登場する器物・動物名前一覧   


◆その他近世以降の伝説・昔話
分類名称主な出典概要
名槍蜈蜙槍
(むかでやり?)
◇民話?
(『類聚伝記大日本史』)
旗本奴「大小神祇組」の首領水野十郎左衛門が、侠客幡随院長兵衛を殺した際に用いた槍。長兵衛はしばしば水野の邸に出入りしていたが、腰の刀を風呂にまで持ち込んでいた。主人の身を心配した水野の若党、軍平と権平は先手を打って長兵衛に斬りつけ、これに気づいた十郎左衛門は駆けつけて板囲越しに浴槽まで刺し貫いた。十郎左衛門は二人の無益な忠義を叱り、二人は切腹して果てた。水野家重代の大身槍で関の大兼光の作だという。
名刀ぬれ絹
(ぬれぎぬ)
◇『関東潔競伝』寛文の頃、神田に住んでいた侠客、臂の久八の大脇差。久八は吉原に行く途中、貧窮多病にて早く殺して欲しい、と袖乞いをする道心坊主に出会い、餅を施す。帰りに再び道心を呼び「死にたいか」と聞くと「疵付かずに死にたい」との答え。怒った久八が脇差を抜くと、忽ち逃げ出す道心。久八は日頃腰膝立たぬと言っていたくせに、と道心を追い、雨で濡れた衣の上から斬り殺したので、この名を付けて秘蔵したという。
濡衣
(ぬれぎぬ
◇『十八大通』十八大通の筆頭、札差の大口屋治兵衛暁翁の脇差。暁翁は雨上がりの土手で「早く死にたい」という道心坊主に出会う。暁翁が「今際の望みがあれば聞いてやる」と言うと、「饅頭を思うまま食べてから死にたい」との答え。望み通りに饅頭を食べさせ、「死にたければその命俺が貰おう」と言う暁翁に、「有り難い」と首を差し出す道心。そこで暁翁は衣の上より袈裟懸けに切り殺したので、刀は後に濡衣と名付られたという。
名刀籠水
(かごのみず?)
◇『長野先生夜話集』今村幽山の細身の刀。幽山が13才の時、下人が御番葛籠を背負って缺落した。これを探し出し草生津へ引き出して首を切ったが、首が落ちない。再び切ろうと幽山が刀を振り上げたところ首が落ちたので、この刀を籠水と名づけた。
霊刀大蛇丸
(だいじゃまる)
◇民話「萩野の大蛇丸」
〔山形県新庄市〕
萩野の安食家に代々伝えられていた守り刀。雨の日になると決まって大蛇に変じ、落楯の麓にある「お清水」に水を飲みに行ったという。 安食家では祟りを恐れて村の法印に贈り、法印はこれを羽黒山神社に奉納した。
名刀蛇切丸
(じゃきりまる)
◇民話「蛇切丸」
〔山形県最上郡
がんどう森に住んでいた盗賊、蛇切丸の持っていた三尺八分の大刀。雄勝峠に住む盗賊、雄勝太郎は、蛇切丸が人のものを盗んだ上に無惨にも殺してしまうと聞き、蛇切丸と勢力争いをすることなる。激戦の末、ついに雄勝太郎が勝利したが、その際、蛇切丸からこの刀を奪った。これが今も及位の旧家高橋家に伝わり、名を金丸といっているという。
金丸
(かねまる?)
名刀蛇体丸
(じゃたいまる?)
◇民話「蛇体丸」
〔群馬県旧利根郡
水上町の阿部氏の先祖が蛇紋ガ淵で大蛇を退治した際に用いた短刀。男が淵で岩魚釣りをしていると、水面にあらわれた蜘蛛が草鞋に糸を吐きかけ、男を淵の中に引っ張り込もうとした。淵の中に何かいると考えたその男が自ら淵へ飛び込み、奥にあった黒い丸太のようなものに短刀を突き立てると、丸太は忽ち恐ろしい大蛇に姿を変えた。男はそれでも恐れず、そののど首を幾度も突いてこれを退治したという。
霊刀百足丸
(むかでまる?)
◇民話「百足丸の刀」
〔群馬県藤岡市〕
南毛は日野の奥、小柏八郎右衛門家に伝わっていた平家相伝の名刀。ある時、八郎右衛門は甘楽郡小幡から焙烙峠を越えて家に帰ったが、途中休んだ所で腰の物を忘れたことに気が付いた。引き返して出会った人に刀のことを聞くと、刀はなかったが道端に三尺の大百足がいて命からがら逃れて来た、との答え。その場所に行ってみると百足はおらず、刀は忘れ置いたままあったという。
◇民話「百足丸」
〔新潟県旧刈羽郡?〕
越後国刈羽郡で庄屋を勤めた下條彌五左衛門が持っていた刀。ある日、高田から馬で帰る途中、道の険しい所で馬が騒ぎ出し鞘から抜け落ちてしまう。帰ってみると刀がないので部下に捜させると、三尺の大百足が路傍にうねっていた。話を聞いて彌五左衛門が自分で行ってみると、やはり落とした刀だったので持ち帰ったが、よく見ると刀に百足の形が現われていた。後に百足丸と名づけられて大事にされたという。
名刀鷲切
(わしきり?)
◇『三州奇談』加賀藩の名家丹羽武兵衛の差していた重代の刀。銘は備前兼光。享保の頃、病を得て石川郡湯涌の温泉を訪れた丹羽は腰刀を盗まれる。能登の旅僧の占いに「獣の手に有り」と出たその夜、障子越しに「愛子を悪鳥にとられたが、この剣を借りて仇を討てた」と礼を言う者あり。障子を開けると逃げ去る獼(おおざる)の姿が見え、後にはこの刀と鷲の片身が残されていた。丹羽は悦び、刀を「鷲切」と名づけて秘蔵したという。
霊刀四つ替り
(よつがわり?)
◇『三州奇談』加賀藩は今枝氏の家士鈴木唯右衛門の家にあった霊刀。焼刃が四段に変わる所から名づけられた。一度見れば、狂乱の者も狐狸に狂わせられた者も忽ちに治ったという。また、鈴木唯右衛門は源義経の家臣を先祖に持ち、天正の頃、手取川の辺りに一城を構えていた鈴木出羽守の後裔だという。
名刀紅葉の賀
(もみじのが?)
◇『三州奇談』白山の下中宮に住む次助という者が所持していた霊刀。希代の業物で、手取川で大蛇を切った際、その血が三日間流れ続け、河水が秋葉の陰の如くであったことから、その名が付けられたという。銘は鎌倉山内任藤源次助真。
霊刀蝘蜓丸
(とかげまる
◇『秋山記行』平家の末葉、大秋山の村長の家に伝わっていた名刀。昔、中津川の東岸にあった洞穴に髪の長い一丈余りの女の化物が出て、人々を悩ませた。村長はこの刀を腰にさして化物退治に向かうが、これを見た化物は、村長が中津川を東に渡りきる前に飛びかかってくる。すると、刀はひとりでに抜けて化物を真っ二つに切り、元の鞘に収まったという。大秋山村零落の後は、箕作村の富豪、嶋田三左衛門の秘蔵に宝になったとも、箕作村から地頭に差し上げたともいわれる。
霊刀青蛇丸
(あおろじまる)
◇民話「青蛇丸」
〔長野県下伊那郡
遠山土佐守藤原友徳が白諏神社に奉納した二振りの刀。友徳が白諏神社に参詣した際、社殿の近くで休んでいると急に天が曇り、忽ちに雷光、雷鳴、大雨が降りだした。ふと見ると木の枝にかけておいた自分の大小の刀が二匹の青蛇に化してこちらを睨んでいる。友徳は部下の武士が社前の霊水を汚したための神の怒りだと覚り、この武士に陳謝させたところ雨は止み、二振りの刀も元の姿に戻った。神意の霊感にうたれた友徳はあらためて社前に詣で、この二振りの刀を神社に奉納した。
霊刀蜥蜴丸
(とかげまる?)
妖刀むかぜ丸
(むかぜまる?)
◇民話「妖刀むかぜ丸」
〔岐阜県中津川市〕
竹づくりで生計を立てていた坂本の在に住むある男が、矢に用いる黒竹を献上した褒美として、苗木の城の殿さまからもらった名刀。鞘から抜くと紫色の怪しい光とともに無数の百足が這い出たという。男が家を空けると周囲の者にたたりをなすので「くらがに谷」の洞穴に隠されたが、男の死後、行方が分からなくなってしまった。
名刀狸丸
(たぬきまる)
◇『西播怪談実記』寛永の頃、佐用郡多賀村の弥左衛門が古狸を切った刀。宍粟の役所からの帰り道、何処からともなく現れ、消えたと見えた小坊主が後ろから飛びかかり足の間をくぐったので、弥左衛門が刀で切り付けると忽ち一丈ほどの大坊主になった。再び切り付けると姿は消えたが、血を辿っていくと古狸が死んでいたため、刀を「狸丸」と名づけた。
名刀猿正宗
(さるまさむね?)
◇『阿州奇事雑話』肥後熊本の飛脚二人が江戸に上る途中、海岸で章魚から猿を助け、その返礼として猿が置いていった刀。江戸であらためたところ紛れもない相州正宗の名作であったことから、主君に献上され「猿正宗」と名づけられた。
猿丸
(さるまる?)
◇民話「猿丸の名刀」
〔広島県旧佐伯郡〕
士官を望んで旅をする二人の浪人が、海岸で大だこから猿を助け、その返礼として猿からもらった刀。もらった刀を腰にさして旅を続けていた二人は、その刀の見事さを見たある町の殿様から懇請され、侍大将としてその殿様に仕えることになった。刀は(二本とも?)猿丸と名付けられ、後々までその国の宝になったという。
霊刀木千把丸
(きせんばまる)
◇民話「木千把丸の刀」
〔徳島県海部郡〕
ある大きな庄屋の下男が鍛冶屋に頼んで、千把の薪を支払い代わりに、鍛冶屋と二人で鍛えた五寸ばかりの小刀。山のうわばみや夜のお堂に出た魔物が下男を襲おうとしたが、この刀が懐でぴかぴかと光ったので、いずれも襲うことが出来なかった。
霊剣紫丸
(むらさきまる?)
◇民話(「富郷民俗抄」)
〔愛媛県旧伊予三島市
ある年の正月、大内へ門明け(年始礼)に行った高橋が、囲炉裏にあたっていた大内を斬った名剣。上猿田を最初に開いたのは大内次郎左エ門で、後れて高橋兵庫守の子孫がやって来た。そのため、高橋は毎年大内へ門明けに行かねばならず、それを快く思っていなかったのである。高橋は力余って茶釜もろともに斬ったが、この剣を抜けば必ず大百足が柄から出入りするという怪異が、それ以来止んでしまった。
霊刀百足丸
(むかでまる)
◇民話「名刀百足丸」
〔高知県室戸市〕
正宗に腕比べを挑んで敗れた魔性が取り残し、正宗が仕上げた刀。柄には金の鶏がつけられていた。安岡家に伝わっていたが、ある時、質商仙頭某の所へ質草に入れられる。仙頭某はこれを倉に入れるが、丑満の頃、にわかに倉が家鳴り振動した。中をのぞくと、刀はたちまち一匹の大きな百足となって倉の窓から逃げ去ったという。
霊刀太郎丸
(たろうまる?)
◇民話(『福岡県史』)
〔福岡県八女郡〕
井手左大臣橘諸兄の後衛とも、肥後阿蘇家家臣の有力者である井手氏の子孫ともいう、井手太郎・井手次郎の兄弟がそれぞれ所持していた魂を持つ生き太刀。太郎丸は背に負うほどの太刀で、真茅で作った蓑に巻かれ「蓑巻太郎丸」とも呼ばれた。天保年間、村にボーシャという病が流行、神に捧げて悪霊退散の祈願をしようと、村の入り口にある「神渕」に次郎丸が投げ入れられた。ボーシャは止み、次郎丸に感謝して、その地は「神露渕(じろぶち)」と呼ばれるようになった。
霊刀次郎丸
(じろうまる?)


◆アイヌの神話・伝説
分類名称主な出典概要
魔剣クト゜ネシリカ◇『クト゜ネシリカ』詞曲の主人公(ポイヤウンペ)の所持する宝剣。柄に狼神、鍔に龍神(雷神)の雄神、鞘に龍神(雷神)の雌神と夏狐の化け物が憑いている。毒液をおびた鎧を身につけたシララペツ彦やカネペツ彦を倒す際などに用いられた。「虎杖丸(いたどりまる)」と和訳される。
魔剣マッネ・モショミ◇民話「美幌の宝刀」
〔北海道網走郡
北見の美幌部落にあった宝刀。タンネシラリという崖に住む魔神を退治するために貸し出されたが、魔神は絶壁の上におり、人間には行くことが出来ない。思いあまってこの刀を投げつけたところ、刀は魔神に飛びついてバリバリと食べてしまった。魔神は退治できたものの、絶壁の上に投げつけられた宝刀を取りに行くことは出来ず、歳月の経つうちに刀は蛇になったという。
魔剣オボコロペ◇民話?(北海道釧路)桂恋の村おさが秘蔵していた「生きた刀」。この村おさが持つ鎧が欲しくなった北見の村おさが、桂恋の村おさの留守に妊婦をやって鎧を盗ませた。桂恋の村おさはこの刀を持って追いかけ妊婦を後ろから切りつけると、お腹の子もろとも切れたので、刀は「オボコロペ/オポコロベ(妊婦を切った刀)」と呼ばれるようになった。


◆南西諸島の神話・伝説
分類名称主な出典概要
名剣千代金丸
(ちよかねまる?)
◇『琉球国由来記』今帰仁城の山北王が所持していた名剣。中山王に城を攻められ、内通者のため妻子が自害するに及び、王はこの剣で城内の鎮所の磐石を十文字に切り刻んだ。その後、王も自刃しようとするが、主を害することを嫌って忽ち鈍刀になったという。そのため志慶間川原に捨てられ、のちに伊平屋人が拾って中山王に献上された。
名剣治金丸
(じがねまる)
◇民話「宝剣治金丸」
〔沖縄本島〕
農家の男が持っていた不思議な庖丁を剣に打ちかえたもの。元の庖丁は目の前で振り回しただけで相手の首を切り落とすことが出来た。これを知った王が京の都に阿波根親方を派遣し、庖丁を剣に打ちかえさせた。剣は京ですりかえられてしまったが、再び京へ上った阿波根親方は3年をかけてこれを取り戻した。



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2005/01/28:初版
2012/01/24:最終加筆
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