中世日本の軍記物に登場する、名のある器物・動物を集めてみた。といっても、名のある武器を集めるついでに見つけたものをリストアップしただけで、例によって網羅的とは言いがたい代物である。また、少しずつ増補していくつもりだが、詳細ページを作る予定は今のところない。おまけキャプション4「『江談抄』に登場する名物」と比較してみるのも一興かも知れない。
『江談抄』と比べてみると、軍記に名のある楽器や文具が登場するのは、平安貴族の文化的伝統を受けてのことだと分かる。また、『江談抄』にも多くの名馬が載るが、剣は一振りのみで甲冑は一つも載らない。これは甲冑の歴史、大鎧の成立とも関わるのかもしれない。一方、名馬の多さは注目に値する。重代の名宝とはなり得ないはずだが、現実における馬の重要性のあらわれだろうか。以前、古代の馬は今でいうところの自動車のようなものだった、という話を大学院で聞いた。それは、戦時には装甲車となり、平時には(今で言う所のベンツのように?)ステータスシンボルになったと。
参考文献 |
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◇永積安明, 島田勇雄校注 『日本古典文学大系31 保元物語 平治物語』 岩波書店, 1961.7 ◇柳瀬喜代志ほか校注・訳 『新編日本古典文学全集41 将門記 陸奥話記 保元物語 平治物語』 小学館, 2002.2 ◇市古貞次校注・訳 『新編日本古典文学全集45 平家物語1』 小学館, 1994.6 ◇市古貞次校注・訳 『新編日本古典文学全集46 平家物語2』 小学館, 1994.8 ◇松尾葦江解題 『参考源平盛衰記(下)(改定史籍集覧本)』 臨川書店, 1982.7 ◇梶原正昭校注・訳 『新編日本古典文学全集62 義経記』 小学館, 2000.1 ◇梶原正昭, 大津雄一、野中哲照校注・訳 『新編日本古典文学全集53 曾我物語』 小学館, 2002.3 ◇後藤丹治, 釜田喜三郎校注 『日本古典文学大系34 太平記一』 岩波書店, 1960.1 |
分類 | 名称 | 主な出典 | 概要 |
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名鎧 | 源太が産衣 (げんたがうぶきぬ) | ◇『保元物語』 ◇『平治物語』 etc. | 源氏重代の八領の鎧の一つ(古活字本ほか)。幼名を源太といった八幡太郎義家が二歳の時、院より召されて急ぎ威させた鎧で、この袖に源太をすえて見参に入れたことからその名がつけられた。胸板に天照大神、八幡神をあらわし、両袖に藤の花の咲きかかる様を威させている。平治の合戦では、源義朝の三男右兵衛佐頼朝が着用したが、合戦に負けて都落ちする際、雪の中に脱ぎ捨てられた。 |
名鎧 | 八竜 (はちりゅう) | ◇『保元物語』 ◇『平治物語』 | 源氏重代の八領の鎧の一つ。後三年合戦の折、八幡太郎義家がつくらせたもので、八幡大菩薩の使者の神、八陣守護のため、金をもって八大竜王の形を打ち出し、甲の真向、鎧の胸板・押付に付けたためにその名がある。保元の合戦では下野守源義朝が、平治の合戦では義朝の長男悪源太義平が着用したが、義平が合戦に負けて都落ちする際、雪の中に脱ぎ捨てられた。 |
名鎧 | 薄金 (うすがね) | ◇『保元物語』 | 源氏重代の八領の鎧の一つ。緋威の鎧で、保元の合戦では、六条判官源為義が着用した。 |
名鎧 | 膝丸 (ひざまる) | ◇『保元物語』 | 源氏重代の八領の鎧の一つ。牛千頭の膝の皮を取って威しているため、牛の精が宿っており、常に現じて主を嫌うという。保元の合戦の際、六条判官為義から、嫡子である敵方義朝に「源太が産衣」とともに贈られた。 |
名鎧 | 月数 (つきかず) | ◇『保元物語』 | 源氏重代の八領の鎧の一つ。朽葉色の唐綾で威した鎧。保元の合戦では、源為義の四男、四郎左衛門頼賢が着用した。 |
名鎧 | 日数 (ひかず) | ◇『保元物語』 | 源氏重代の八領の鎧の一つ。保元の合戦では、六条判官為義の子、五郎掃部助頼仲、賀茂六郎為宗、七郎為成、源九郎為仲のいずれかが着用したものと思われる。 |
名鎧 | 楯無 (たてなし) | ◇『保元物語』 ◇『平治物語』 | 源氏重代の八領の鎧の一つ。黒糸威の鎧で、獅子の丸の裾金物が打ってあった。平治の合戦では、左馬頭源義朝が着用したが、合戦に負けて都落ちする際、雪の中に脱ぎ捨てられた。 |
名鎧 | 澤瀉/面高 (おもだか) | ◇『保元物語』 ◇『平治物語』 | 源氏重代の八領の鎧の一つ。沢瀉威(沢瀉の葉のように長三角で底辺が食い込んだ形を2〜5色の色変わりにあらわして威す威し方)の鎧。平治の合戦では、源義朝の次男中宮太夫進朝長が着用したが、合戦に負けて都落ちする際、雪の中に脱ぎ捨てられた。 |
名鎧 | 七竜 (しちりゅう) | ◇『保元物語』 | 源氏重代の八領の鎧の一つ(金刀本)。保元の合戦では、六条判官為義の子、五郎掃部助頼仲、賀茂六郎為宗、七郎為成、源九郎為仲のうちのいずれかが着用したものと思われる。 |
霊鎧 | 唐皮 (からかわ) | ◇『平治物語』 ◇『平家物語』 etc. | 平氏重代の鎧。櫨匂威の鎧で黄色の蝶の裾金物が打ってあった。桓武天皇の甥の香円(もしくは伯父の慶円)が紫宸殿の前で真言の修法を行なった際、不動明王の七領の鎧の一つ「兵面」が天から降ってきたが、皮威で虎の毛がついていたので「唐皮(=中国から輸入された虎皮)」と名付けた。国家の守として内裏の御宝としたが、のちに平貞盛に下賜した。平治の合戦では佐衛門佐重盛が着用、その後嫡子の維盛に相伝した。 |
名鎧 | 敷妙 (しきたえ) | ◇『義経記』 | 鞍馬寺の別当である東光房の阿闍梨が、左馬頭源義朝の末子牛若(のちの義経)に贈った腹巻。牛若は鞍馬での修行時よりこれを身につけ、鞍馬を出て奥州に下る際にも、直垂の下にこれを着こんでいた。 |
分類 | 名称 | 主な出典 | 概要 |
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琵琶 | 玄象/玄上 (げんじょう) | ◇『平治物語』 ◇『平家物語』 etc. | 皇室に伝わる琵琶の名器。仁明天皇の頃、掃部頭藤原貞敏が渡唐し、大唐の琵琶の博士廉承武に会って三曲を伝授されて帰国した際、相伝した三面の琵琶の一つ。村上天皇の頃、十五夜に帝がこれをひいていると、廉承武の霊が現れ、残されていた秘曲を伝授したという。 |
琵琶 | 師子丸/獅子丸 (ししまる) | ◇『平家物語』 | 皇室に伝わる琵琶の名器。仁明天皇の頃、掃部頭藤原貞敏が渡唐し、大唐の琵琶の博士廉承武に会って三曲を伝授されて帰国した際、相伝した三面の琵琶の一つ。しかし、竜神が惜しんだのか、帰路波風が荒く立ったので、この「師子丸」を海底に沈めて竜神に供え、残る二面を持ち帰った。 |
琵琶 | 青山 (せいざん) | ◇『平家物語』 | 皇室に伝わる琵琶の名器。仁明天皇の頃、掃部頭藤原貞敏が渡唐し、大唐の琵琶の博士廉承武に会って三曲を伝授されて帰国した際、相伝した三面の琵琶の一つ。甲は紫藤。撥面には夏山の峰の緑の木の間から明け方の月の出る様が画かれていたためにこの名がつけられた。御室に伝わっていたのを、幼少の頃、童形で仕えていた皇后宮亮平経正に預け下されていたが、平家都落ちの際、御室に返された。 |
琵琶 | 名曲 (めいぎょく) | ◇『義経記』 | 白河院の頃、法性寺の長老が唐に渡った際に渡された二つの重宝のうちの一つ。内裏におかれていたが、保元の合戦の際に崇徳上皇の御所で焼失してしまった。 |
琵琶 | 下濃 (すそご) | ◇『太平記』 | 元弘の乱、六波羅陥落の後、捕らえられた光厳天皇らが三種の神器・玄象・二間御本尊とともに五宮(亀山天皇の皇子守良親王か)に渡したもの。『教訓抄』巻第九に琵琶の逸物としてその名が挙げられていることから、琵琶と考えられる。 |
和琴 | 鈴鹿 (すずか) | ◇『平治物語』 ◇『平家物語』 | 皇室に伝わる和琴の名器。平治の合戦で、二条天皇が六波羅へ行幸する際、「玄象」などとともに持ち出そうとしたが出来なかった。のち、平家が安徳天皇とともに都落ちする際にも持ち出そうとした。 |
笛 | 小枝 (こえだ) | ◇『平家物語』 | 後白河院の第二皇子高倉宮(以仁王)秘蔵の漢竹の笛。高倉宮の謀反が露見し、御所から三井寺に落ちる際、御座所の枕元に忘れていたのを長兵衛尉信連が見つけ、追いついて高倉宮に差し上げた。高倉宮は感心して「われ死なば、此笛を御棺にいれよ」と命じた。 |
笛 | 蝉折 (せみおれ) | ◇『平家物語』 | 鳥羽院の頃、宋の皇帝に黄金千両を贈ったところ、そのお返しに生きた蝉のような節のついた笛竹を一節贈られた。これで作った笛を高松中納言実衡が吹いた際、うっかり膝より下に置いたところ、蝉が折れてしまったのでその名をつけた。笛の名手だったため高倉宮が相伝した。 |
笛 | 小枝 (さえだ) | ◇『平家物語』 | 修理大夫平経盛の子息大夫敦盛が、熊谷次郎直実に討たれた際、錦の袋に入れて腰にさしていた笛。祖父忠盛が笛の上手であったため、鳥羽院から賜ったもの。経盛が相伝し、敦盛も笛の名手だったことから、これを持っていたのだという。延慶本は、漢竹の篳篥とする。 |
笛 | 松風 (まつかぜ) | ◇『義経記』 | 源義経の愛妾静が鶴岡八幡宮で舞を奉納した際、楽党をつとめた畠山重忠が用いた漢竹の横笛(鼓は工藤左衛門尉祐経、銅拍子は梶原平三景時が担当)。この時、静は頼朝の御前であるにもかかわらず、義経への思いを歌い上げて人々を驚かした。 |
鼓 | 初音 (はつね) | ◇『義経記』 | 白河院の頃、法性寺の長老が唐に渡った際に渡された二つの重宝のうちの一つ。胴は紫檀で羊の革を張り、啄木組の調べの緒を持つ。讃岐守平正盛が賜って秘蔵していたが、のち、屋島の合戦の際に、波に揺られていたのを伊勢三郎義盛が拾い上げ、源頼朝に献上。その後、院に召し上げられたが、平家追討の後、源義経が拝領した。義経は吉野で愛妾静と別れる際にこれを与えるが、静の護衛に残った侍たちに騙し取られてしまった。 |
分類 | 名称 | 主な出典 | 概要 |
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硯 | 松陰 (まつかげ) | ◇『平家物語』 | 入道相国平清盛が宋の皇帝に砂金を献上し、その返礼として贈られた硯。清盛の子息、三位中将重衡が相伝したが、一谷の合戦で源氏方に生け捕りにされ、八条堀河に捕らえられていた際に、教えを乞おうと招いた法然房源空に御布施として贈られた。 |
分類 | 名称 | 主な出典 | 概要 |
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名馬 | 滝水 (りゅうすい) | ◇『曾我物語』 | 天安元年(857)、文徳天皇の第一皇子惟喬親王と第二皇子惟仁親王が皇位を争い、競馬の芸と相撲の勝負で決することになった。その際、惟喬親王側の競馬に用いられた名馬。十番の競馬で四番までは勝ったが、後の六番で負け、御持僧だった真済僧正は嘆きのあまり、護摩壇を片付ける間もなく亡くなったという。 |
名馬 | 走水 (そうすい) | ◇『曾我物語』 | 天安元年(857)、文徳天皇の第一皇子惟喬親王と第二皇子惟仁親王が皇位を争い、競馬と相撲で決することになった。その際、惟仁親王側の競馬に用いられた名馬。十番の競馬で四番まで負け、御持僧の恵亮和尚は独鈷で自らの頭を突き、自身の脳を混ぜて護摩を焚いた。その甲斐あってか、後の六番は勝ち、相撲にも勝利したという。 |
名馬 | 暁 (あかつき) | ◇『曾我物語』 | 曾我兄弟の父、河津三郎祐通が伊豆奥野での狩の帰りに乗っていた名馬。鴾毛で、丈は四尺七寸あった。祐通はこの時、工藤一郎祐経の郎従八幡三郎に射られて落馬、そのまま亡くなった。 |
名馬 | 大鹿毛 (おおかげ) | ◇『曾我物語』 | 流人であった源頼朝が、曾我兄弟の祖父、伊東次郎祐親に命をねらわれ、伊東を脱出する際に乗った名馬。頼朝は祐親の留守にその娘と契り、一子をもうける。これに怒った祐親はこの子を殺し、将来を案じて頼朝まで亡きものにしようとした。 |
名馬 | 木の下 (このした) | ◇『平家物語』 | 源三位入道頼政の嫡子、伊豆守仲綱が持っていた鹿毛の名馬。都で評判の馬で、前右大将平宗盛が無理に所望した。仲綱が惜しんだので、宗盛は手に入れた「木の下」に「仲綱」という焼き印を押して侮辱した。これが頼政挙兵の原因となった。 |
名馬 | 煖廷/南鐐 (なんりょう) | ◇『平家物語』 | 前右大将平宗盛秘蔵の白葦毛の名馬。源頼政の侍、渡辺源三滝口競が宗盛を謀(たばか)って手に入れ、伊豆守仲綱に差上げた。すぐさま馬のたてがみを切り、「昔は煖廷、今は平の宗盛入道」(高野本)と焼き印を押して、次の夜六波羅につかわし、「木の下」で受けた恥辱の借りを返した。延慶本では「遠山」、正節本では「南鐐」と表記。 |
遠山 (えんざん?) | |||
名馬 | 望月 (もちづき) | ◇『平家物語』 | 相模国住人大庭三郎景親が、坂東八ヶ国一の馬として入道相国(平清盛)に献上した馬。黒い馬で額が白かった。その尾に鼠が一夜のうちに巣をつくって子を産み、異変の前兆とされて、陰陽頭安倍泰親が賜った。 |
名馬 | 生食 (いけずき) | ◇『平家物語』 | 源頼朝の持っていた黒栗毛の名馬。背までの高さ四尺八寸。非常に肥えて逞しい馬だったが、馬にも人にも噛み付いて側に寄せつけないので「生食」と名づけたという。梶原源太景季がしきりに所望したが、木曾義仲との合戦の際、梶原には「摺墨」を与え、「生食」は佐々木四郎高綱に与えた。高綱はこの馬で宇治川を真っ先に渡ることを誓い、見事果たして先陣をきった。諸本により「いけすき」「生食」「生飡」と表記。 |
名馬 | 摺墨 (するすみ) | ◇『平家物語』 | 源頼朝の持っていた名馬。真っ黒だったので「摺墨」と名づけたという。木曾義仲との合戦の際、「生食」を所望する梶原源太景季に与えられた。宇治川の先陣争いでは「生食」に乗った佐々木四郎高綱に負け、景季は二陣となった。諸本により「する墨」「するすみ」「摺墨」「磨墨」と表記。延慶本は「ウスヽミ」(薄墨)とする。 |
名馬 | 鬼葦毛 (おにあしげ) | ◇『平家物語』 | 木曾左馬頭義仲が最期の合戦で乗っていた木曾の名馬。「葦毛」とは、白に黒または濃褐色の混じった馬の毛色のこと。 |
名馬 | 権太栗毛 (ごんたくりげ) | ◇『平家物語』 | 熊谷二郎直実が一谷合戦の際に乗っていた名馬。直実は子息直家とともにこの馬で搦手の先陣をきった。諸本により「こんた栗毛」「権田騮」「近太栗毛(ゴンタクリゲ)」「権太栗毛」と表記。 |
名馬 | 西楼 (せいろう) | ◇『平家物語』 | 熊谷二郎直実の子息、小二郎直家が一谷合戦の際に乗っていた白月毛の名馬。直家は父直実とともにこの馬で搦手の先陣をきった。 |
名馬 | 目糟毛 (めかすげ) | ◇『平家物語』 | 平山武者所季重が一谷合戦の際に乗っていた名馬。「糟毛」とは灰色に白の混じった馬の毛色。季重はこの馬に乗り、直実と一谷の先陣を争った。延慶本によれば、左の目の辺りに白い星(疵)があったためにその名をつけたという。 |
名馬 | 薄墨 (うすずみ) | ◇『平家物語』 | 能登守平教経が一谷合戦で負け、落ちのびる際に乗っていた馬。諸本により名称に異同があり、高野本などは「うす黒」(高良本はグロ、寂光院本などはスミと読む)、元和版・百二十句本・天草本は「薄墨(ウススミ)」、東大正節本は「薄墨(ズミ)」、延慶本「薄雲」と表記。 |
名馬 | 童子鹿毛 (どうじかげ) | ◇『平家物語』 | 生田森の副将軍だった本三位中将平重衡が、源氏方に生け捕りにされた際に乗っていた名馬。延慶本によれば、兄の内大臣宗盛から賜ったもの。 |
名馬 | 夜目なし月毛 (よめなしつきげ) | ◇『平家物語』 | 三位中将重衡秘蔵の名馬だが、重衡生け捕りの際には重衡の乳母子、後藤兵衛盛長が乗っていた。盛長は重衡を見捨てて逃げたので、後に恥知らずと非難された。「夜目」とは馬の前脚、膝内側にある白い星のこと。その馬は夜よく走るといわれる。 |
名馬 | 井上黒 (いのうえぐろ) ↓ 河越黒 (かわごえぐろ) | ◇『平家物語』 | 生田森の大将軍だった新中納言平知盛が、海上の船まで逃げ延びた際に乗っていた名馬。船には馬の乗る場所がなかったので、敵に取られては、と阿波民部重能が射殺そうとした。しかし、自らの命を助けてくれた馬だからと知盛はその命を助け、水際に追い返した。馬の方も主人との別れを惜しんだが、その後、陸に上がって休んでいるところを河越小太郎重房が捕らえて後白河院に献上した。元々は院秘蔵の馬で、宗盛に下賜されたものを知盛が預かっていた。信濃国井上産だったので「井上黒」と呼ばれたが、のち、捕らえて献上した河越の名から「河越黒」とも呼ばれた。 |
名馬 | 騅 (すい) | ◇『平家物語』 etc. | 楚の項羽の馬。一日に千里を飛ぶという。項羽が漢の高祖に負け、后の虞氏とともに逃げようとした際、この馬は動こうとせず、項羽は涙を流して虞氏との別れを悲しんだ。出典は『史記』項羽本紀か? |
名馬 | 犍陟 (こんでい) | ◇『平家物語』 | 悉達太子(出家前の釈迦)が出家して檀特山に入った時、下僕である車匿舎人が口を取り、帰りにはこれを賜って王宮に引いて帰ったといわれる馬。 |
名馬 | 大夫黒/太夫黒 (たゆう/たいふぐろ) | ◇『平家物語』 ◇『義経記』 | 大夫判官源義経が五位尉に任官された際、五位にして「大夫黒」と呼ばれた黒馬。八島の合戦で義経の身代わりとなり、能登守平教経の矢に当たって死んだ佐藤三郎兵衛嗣信の弔いを頼んだ僧に、金覆輪の鞍をおいて与えられたもの。一谷の合戦、鵯越の坂落の際に義経が乗っていたのもこの馬。 |
名馬 | 大黒 (おおぐろ) | ◇『義経記』 | 大夫判官源義経秘蔵の馬。頼朝からの命を受け、義経を討つために京に上ってきた土佐坊正尊を、義経の前に引き出す際に武蔵坊弁慶が使った。土佐坊の軍勢との戦いでは、義経自身が騎乗。 |
名馬 | 大黒 (おおぐろ) | ◇『曾我物語』 | 建久四年(1193)、源頼朝は諸国の武士を召し連れて、浅間・三原の狩場巡りを行ったが、その際に連れていた頼朝秘蔵の馬。梶原の詠んだ句に「忍びても夜こそこうと言ふべきに」と上の句をつけた信濃国の住人海野小太郎行氏に連歌の褒美として与えられた。 |
名馬 | 小鴾毛 (こつきげ) | ◇『曾我物語』 | 建久四年(1193)、源頼朝は諸国の武士を召し連れて、浅間・三原の狩場巡りを行ったが、その際に連れていた頼朝秘蔵の馬。離山の裾を通った時、狐が鳴いて走り過ぎたのを見て「浅間に鳴ける昼狐かな」と詠んだ梶原平三景時に褒美として与えられた。 |
名馬 | 一部黒 (いちのへいぐろ) | ◇『太平記』 | 畿内西国の反幕府勢力を討つために関東より上洛した長崎悪四郎左衛門尉が、元弘三年(1333)正月、侍大将として京より出陣した際に乗っていた坂東一の名馬。五尺三寸あった。 |
名馬 | 白浪 (しらなみ) | ◇『太平記』 | 元弘三年五月、新田義貞の軍勢に若宮小路まで攻め入られたとの報を受けた相模入道(北条高時)が、嶋津四郎に与えた関東無双の名馬。三間の厩で飼われていた。嶋津は執事長崎入道円喜の烏帽子子で、一騎当千の勇士として頼りにされていたが、この馬に乗って出陣した直後、戦わずに新田勢に降参してしまった。 |
名馬 | 兎鶏 (とけい) | ◇『太平記』 | 元弘三年五月、長崎入道円喜の嫡孫、次郎高重が、これが最後と思い定めた合戦で、金貝細工の鞍に小総の付いた鞦を懸けて乗った坂東一の名馬。敵勢の中を駆け回り、多くの敵を切り捨てて葛西谷に戻った高重は、大殿(北条高時)に自害を勧め、手本として自らも腹を切った。 |
分類 | 名称 | 主な出典 | 概要 |
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鷹 | 雲翔 (うんしょう) | ◇『曾我物語』 | 周の文王(紀元前12世紀頃、殷を滅ぼし周を立てた王)が用いた鷹。 |
鷹 | 深井 (しんせい) | ◇『曾我物語』 | 夏の禹王(伝説上の聖王で夏王朝の始祖)が用いた鷹。 |
鷹 | 氷室 (ひむろ) | ◇『曾我物語』 | 仁徳天皇の用いた鷹。我が国における鷹狩は仁徳天皇の御世に始まったという。 |
鷹 | 白簫 (しらしょう) | ◇『曾我物語』 | 神通力を持った鷹。狩がしたいと言う源頼朝、鷹狩は罪業になると言う梶原平三景時に対し、鷹狩が罪業にならないことを示すために畠山次郎重忠が例としてあげた。 |
鷹 | 藤沢 (ふじさわ) | ◇『曾我物語』 | 神通力を持った鷹。同上。頼朝は畠山の鷹の知識に感心し、褒美として陸奥国笹川の公田三千八百町を与え、武蔵・上野両国の惣追捕使に任命した。 |
鷹 | 一拍子 (いっぴょうし) | ◇『曾我物語』 | 神通力を持った鷹。同上。 |
鷹 | 唐幕 (からまく) | ◇『曾我物語』 | 神通力を持った鷹。同上。 |
鷹 | 屋真白 (やましろ) | ◇『曾我物語』 | 神通力を持った鷹。同上。 |
鷹 | 藤の花 (ふじのはな) | ◇『曾我物語』 | 神通力を持った鷹。同上。 |
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