分類 | 霊剣 | 霊剣 | 霊剣 | 霊剣 | 霊剣 | 霊剣 | 霊剣 | 霊剣 |
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語意・語源 | 本文にて略述 | |||||||
系統 | 春秋戦国期の宝剣伝説 | |||||||
主な出典 |
◇王嘉撰『拾遺記』巻十
前秦の王嘉(?-385?)の撰。もとは全十九巻だったが、東晋代(317-420)末期に散逸、梁代(503-557)の蕭綺が集成して全十巻とした。第一〜第九に三皇五帝から東晋代までのことを、第十巻に昆侖山、九仙山などのことを記す。本ページの八振りの剣が登場するのは、巻十の昆吾山について書かれた箇所。干将・鏌鋣を昆吾に棲む動物の内臓から作ったとする挿話もここに載る。(袁1993ほか)
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参考文献 |
◇東方朔/葛洪/王嘉撰『叢書集成初編 神異經 枕中書 拾遺記』中華書局、1991 ◇李ムほか撰『四部叢刊三編(三五―五五) 太平御覧(二十一冊)』上海書店、1985.12(1936) ◇伊藤清司『中国の神話・伝説』東方書店、1996.9 | |||||||
◇村上武雄編/伊藤清司解説『中国神話伝説集』社会思想社(現代教養文庫875)、1976.2 ◇袁阿(鈴木博訳)『中国の神話伝説 下』青土社、1993.4 ◇曽布川寛、谷豊信責任編集『世界美術大全集 東洋編 第2巻 秦・漢』小学館、1998.9 ◇袁珂(鈴木博訳)『中国神話・伝説大事典』大修館書店、1999.4 ◇アン・ビレル(丸山和江訳)『中国の神話』丸善(丸善ブックス099)、2003.1 |
伊藤清司の『中国の神話・伝説』(1996)には、越王勾践が造らせた八振りの名のある剣が紹介されている。見出しは「越王勾践の八振りの剣」。出典は【前秦・王嘉撰『拾遺記』巻一〇】である。非常に簡潔な内容なので、以下に全文引用させていただく。
越王勾践(春秋時代の覇者。在位前四九六〜前四六五。越は今の折江省)は鍛冶師に命じて、白馬と白牛を犠牲として供え、昆吾の神を祀らせた。そのうえで、鉱物を採掘し鎔解して、八振りのすぐれた剣を造らせた。その結果、できあがった剣の一つを揜日といい、これで太陽を指すと、昼日中でもあたりが暗くなった。それは金属は陰性で、陰気が盛んになると陽が消滅するからである。二つめの剣を断水といい、これで水を斬ると、水は割れてふたたび合うことはなかった。三つめの剣を転魂といい、これで月を指すと、月に棲む蟾蜍と兎はひっくりかえった。四つめの剣を懸剪といい、空飛ぶ鳥がこの刃に触れると真っ二つに斬れた。五つめの剣を驚鯨といい、これを海に浮かべると、鯨の類が驚いて海中深く潜った。六つめの剣を滅魂といい、夜間これをもって歩くと、魑魅魍魎は怖れて姿を消した。七つめの剣を却邪といい、物の怪に憑かれた者はこれを見ると怖れて平伏した。八つめの剣を真鋼といい、これで玉や金属を斬ると、土や木を削るようにたやすく斬れた。これらの八振りの剣は四方八方の気に応じて造りあげられたものであるという。(p.270-271)
袁珂(鈴木博訳)の『中国神話・伝説大事典』(1999)によれば、昆吾山は『山海経』「中山経」にも載る赤銅を産する山である(p.249)。上記の物語が載る『拾遺記』巻十「昆吾山」の段の冒頭にも「昆吾山其下多赤金色如火」(昆吾山の麓には赤金が多く、その色は火のようである)とある(叢書集成版(1991)p.201)。
文中、「月に棲む蟾蜍と兎」という文言があるが、中国では月には蟾蜍(ひきがえる)と兎が棲むとされていたらしい。松村武雄編『中国神話伝説集』(1976)には、夫から不死の薬を盗んで月に逃げ、蟾蜍になった姮娥の物語(p.17)と、月に棲んで薬を搗く玉兎の物語(p.19)が載せられている。また、湖南省長沙市馬王堆1号漢墓及び3号漢墓から発見された帛画には、三日月の上を跳ぶ蟾蜍と兎が描かれている※1。
※1 : 曽布川寛、谷豊信責任編集『世界美術大全集 東洋編 第2巻 秦・漢』に詳細が載る。同書によれば、これらの帛画は、前漢初期(前2世紀)のもの。長沙市の湖南省博物館所蔵。1972年から1974年にかけて発見されたもので、1号墓の被葬者は長沙丞相軑侯利蒼の夫人である。図版はp.108とp.113、作品解説はp.347、描き起こし図はp.348-349に載る。その他、松村武雄編『中国神話伝説集』(1976)、アン・ビレル(丸山和江訳)『中国の神話』(2003)等でも紹介されている。
念のため、原文で確かめよう、ということで『叢書集成初編 神異經 枕中書 拾遺記』(1991)で確認してみたところ、伊藤の『中国の神話・伝説』(1996)とは、剣の名称が若干異なっていた。そこで、以下に該当箇所を引用し、一通り検討してみたい。微妙な漢字の差にも言及するので、見づらい場合は適宜文字サイズを大きくしてご覧いただきたい。
越王句踐使工人以白馬白牛祠昆吾之~採金鑄之以成八劒之精一名揜日以之指日則光晝暗金陰也陰盛則陽滅二名斷水以之劃水開即不合三名轉魄以之指月蟾兎爲之倒轉四名懸翦飛鳥遊過觸其刃如斬截焉五名驚鯢以之泛海鯨鯢爲之深入六曰滅魂挾之夜行不逢魑魅七名卻邪有妖魅者見之則伏八名眞剛以切玉斷金如削土木矣以應八方之氣鑄之也(p.202)
さらに、『太平御覧』※2巻第344兵部75劔下も、『拾遺記』を引いてこの挿話を紹介しているので、これも以下に引用しよう。引用元は『四部叢刊三編 太平御覧 九』(1985)である。
拾遺記曰(中略)
又曰越王勾踐使工人以白牛白馬祀昆吾山神以成八劔一名掩日以之指日則日光晝暗金者陰物也陰盛則陽滅二曰断水畫水開即不合三曰轉魄指月蟾免爲之倒轉四曰懸剪飛鳥遊遇觸其刃如斬截焉五曰驚鯢以之沈海鯨鯢爲之深入六曰滅魂扶以之夜行不遇魑魅七日却邪有妖魅見之即止八曰真剛以之切玉断金如刻削土木矣以應八方之氣也
まず一振りめ、伊藤は「揜日(ルビ:えんじつ)」、叢書集成は「揜日」で一致するが、四部叢刊は「掩日」で異なっている。ただ、「揜」には「おおう・おおいつつむ」の意があり、「掩」には「おおう・おおいかくす」の意があるので※3、意味としては一致すると言って良い。「太陽を指すと暗くなる」という剣の説明にも合致する。「晝」は「昼」の正字(旧字)。「書」や、「画」の正字である「畫」と間違えやすいので注意、などとよく言われる字である。二振りめは、伊藤が「断水(ルビなし)」、四部叢刊が「断水」とし、叢書集成版は「斷水」とする。「断」は「斷」の俗字なので、これも一致しているとみて良い。叢書集成にある「劃」は「刃物でたちわる・わける」の意である。
問題は三振りめである。伊藤が「転魂(ルビなし)」とする一方、叢書集成・四部叢刊はともに「轉魄」とする。「転」は「轉」の略字だが、「魂」と「魄」は明らかに別の字である。いずれも「たましい」の意だが、「魂」は陽の気で精神をつかさどるのに対し、「魄」は陰の気で肉体を主宰するという。注目すべきは、「魄」に「月の輪郭の光輝のない部分」「月、月の光」といった意味のあること。「月を指すと蟾蜍(ひきがえる)と兎がひっくり返る」という剣の説明をふまえると、その名は「転(轉)魄」の方が相応しいのではないだろうか。「滅魂」という剣が七番目に登場することを考えても、ここは「転魂」よりも「転魄」が妥当であるように思われる。なお、四部叢刊にある「免」の字は、どう見ても「免」にしか見えないものの、おそらく「兔(うさぎ)」のことだろう。
続く四振りめは、伊藤が「懸剪(ルビ:けんせん)」、四部叢刊が「懸剪」とし、叢書集成が「懸翦」とする。「剪」は「翦」の俗字なので、これは三者一致とみて良い。五振りめは伊藤が「驚鯨(ルビ:きょうげい)」で、叢書集成・四部叢刊はともに「驚鯢」。「鯨」と「鯢」は読みはともに「ゲイ」だが、意味は若干異なる。「鯨」は「くじら」「おくじら」の意だが、「鯢」は「さんしょううお」「めくじら」「こざかな」の意である。剣の説明に出てくる「鯨鯢」は、「雄くじらと雌くじら」の意なので、ここはいずれにしても「くじら」の意と取るのが妥当だろう。驚かす対象が山椒魚では、絵にならない。
六振りめは、伊藤が「滅魂(ルビ:めつこん)」、叢書集成・四部叢刊が「滅魂」としており三者一致。七振りめは、伊藤が「却邪(ルビ:きゃくじゃ)」、四部叢刊が「却邪」、叢書集成が「卻邪」とするが、「却」は「卻」の俗字なので、これも三者一致する。
最後の八振りめは、伊藤が「真鋼(ルビ:しんこう)」、叢書集成が「眞剛」、四部叢刊が「真剛」とし、再び表記のぶれを見せる。「真」は「眞」の俗字だが、「鋼」と「剛」は明らかに別の字である。ただ、「鋼」は「ねりがね」「はがね」「かたい」の意、剛は「たちきる」「きっさきが堅い、又ははがね」の意なので、意味はそれほど変わらない。以下、三者の剣の名称を表にまとめてみた。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | |
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◇伊藤清司『中国の神話・伝説』 | 揜日 | 断水 | 転魂 | 懸剪 | 驚鯨 | 滅魂 | 却邪 | 真鋼 |
◇叢書集成『拾遺記』 | 揜日 | 斷水 | 轉魄 | 懸翦 | 驚鯢 | 滅魂 | 卻邪 | 眞剛 |
◇四部叢刊『太平御覧』所収「拾遺記」 | 掩日 | 断水 | 轉魄 | 懸剪 | 驚鯢 | 滅魂 | 却邪 | 真剛 |
おそらく、それぞれが参照した伝本が異なっていたのだろう。何れかが誤りで、何れかが正しいとは一概に言えないのではないかと思う。ただ、前述のとおり、三振りめに関しては「転魄」の方が妥当なのではないか、と私は思っている。
※2 : 袁阿(鈴木博訳)の『中国の神話伝説 下』(1993)によれば、『太平御覧』は、李ム(925-996)らの奉勅撰で、全一千巻の類書。北宋代、太平興国八年(983)の成立。55門に分け、1660点余りの古書から引用している。
※3 : 以下、漢字の意味に関しては、諸橋轍次の『大漢和辞典』(大修館書店)、いわゆる『諸橋大漢和』を参照した。
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