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今剣(いまのつるぎ)

分類名刀
語意・語源??
系統源義経伝承群
主な出典◇『義経記』
著者未詳。八巻。『判官物語』、『義経双紙』、『よしつね物語』などの名称もある。室町初・中期の成立。文学史上では「軍記もの」と呼ばれるジャンルに含まれるが、戦いそのものを主題としたものではなく、内容的には九郎判官源義経の一代記と言うべきもの。異本は他の軍記作品に比べると少なく、諸本は流布本、判官物語、よしつね物語の三つに大別される。判官物語は、さらに第一系列(橘本・慶応本・天理本・阿波本)と第二系列(田中本・岩瀬本)の二系列に分かれ、第一系列から流布本が、第二系列からよしつね物語(赤木本・竜門本)が生じたとするのが定説。(佐藤1995ほか)
参考文献 ◇正宗敦夫編纂・校訂『日本古典全集 義經記』日本古典全集刊行會、1928.2
◇島津久基校訂『義経記』岩波書店(岩波文庫)、1939.3
◇岡見正雄校注『日本古典文学大系37 義經記』岩波書店、1959.5
◇高木卓訳『古典文学全集17 義経記 曽我物語』筑摩書房、1961.12
◇佐藤謙三、小林弘邦訳『義経記2』平凡社(東洋文庫)、1968.10
◇角川源義、村上學編『赤木文庫本 義經物語』角川書店(貴重古典籍叢刊10)、1974.3
◇梶原正昭校注・訳『新編日本古典文学全集62 義経記』小学館、2000.1
◇佐藤陸「『義経記』諸本の展開」(梶原正昭編『曽我・義経記の世界』汲古書院)、1995.12
◇佐藤俊之とF.E.A.R『聖剣伝説2』新紀元社、1998.11
◇文化庁監修『国宝・重要文化財大全6 工芸品(下巻)』毎日新聞社、1999.9
◇週間百科編集部編『朝日百科 日本の国宝2 沖縄/九州/四国/中国』朝日新聞社、1999.11
◇鈴木真哉『刀と首取り―戦国合戦異説』平凡社、2000.3
◇牧秀彦/新紀元社編集部編『剣技・剣術三 名刀伝』新紀元社、2002.8
◇牧秀彦『名刀伝説』新紀元社、2004.10
◇牧秀彦『名刀 その由来と伝説』光文社、2005.4

◆九郎判官源義経の守刀

源平合戦の英雄、九郎判官源義経を主人公とする軍記物『義経記』には、今剣という名の刀が登場する。判官義経は、壇の浦で平家を滅ぼした後、兄の頼朝と対立、平泉の藤原秀衡を頼って古巣の奥州へと落ちくだる。しかし、秀衡の死後、藤原氏一族に内紛がおき、義経は頼朝に懐柔された泰衡(秀衡の第二子)に攻められ合戦に。義経側の軍勢は弁慶以下わずか数騎。それも次々と討ち死にし、義経も衣川館で自刃して果てることになる。この義経最期の時に用いられるのが、この今剣である。まずは、流布本系※1を底本とする日本古典文学大系『義経記』(1959)から、義経最期の場面を引用しよう。なお、ルビは一部のみ同書より〈 〉で示している。

「さて自害の刻限になりたるやらん、又自害は如何様〈いかやう〉にしたるをよきと云(ふ)やらん」との給(宣)へば、「佐藤兵衛〈さとうひやうゑ〉が京〈きやう〉にて仕〈つかまつ〉りたるをこそ、後〈のち〉まで人々讚〈ほ〉め候へ」と申(し)ければ、「仔細なし。さては疵の口のひろきこそよからめ」とて、三条〈でう〉小鍛冶〈こかぢ〉が宿願〈しゆくぐはん〉有(り)て、鞍馬へ打ちて參らせたる刀の六寸五分ありけるを、別當〈べつたう〉申(し)下〈おろ〉していまの劒〈つるぎ〉と名付(け)て秘藏〈ひさう〉しけるを、判官幼〈おさな〉くて鞍馬へ御出〈いで〉の時、守刀〈まぼりがたな〉に奉りしぞかし。義經幼少〈ようせう〉より秘藏して身を放〈はな〉さずして、西國の合戰〈かつせん〉にも鎧〈よろひ〉の下にさされける。かの刀を以て左の乳〈ち〉の下より刀を立て、後〈うしろ〉へ透〈とを〉れと掻〈かき〉切つて、疵の口を三方へ掻〈かき〉破り、腸〈はらわた〉を繰〈くり〉出〈いだ〉し、刀を衣〈きぬ〉の袖にて押〈をし〉拭〈ぬぐ〉い(ひ)、衣〈きぬ〉引〈ひき〉掛け、脇息〈けうそく〉してぞおはしましける。(p.383)

一応、簡単に補足しよう。法華経も読み終わり、いよいよ自害の時が来た、ということで、義経は最後までつき従っていた北の方のお守り役、十郎権頭兼房に「自害はどのようにするのが望ましいか」と尋ねる。すると老臣兼房は、「佐藤兵衛が京都でやりましたのを、後々まで人々は褒め称えております」と答える。佐藤兵衛とは、同じ『義経記』巻六で、義経の身代わりとなって自刃した郎等の佐藤忠信のこと。義経は「それならばわけはない。傷口の広いのが良いのだな」と言って、六寸五分の「いまの劒」を手にする。この刀は、三条小鍛冶が宿願あって鞍馬寺へ奉納したもので、鞍馬の別当が仏前から下ろして「いまの劒」と名付けて秘蔵していたものである。義経が幼くして鞍馬へ預けられた際、守り刀として与えられたが、義経はこれを秘蔵、西国での合戦の時にも鎧の下にさしていたという。

念のため、判官物語第二系列の田中本※2を底本とする新編日本古典文学全集『義経記』(2000)も見ておこう。ルビは先ほどと同様、一部のみ同書より〈 〉で示した。

「自害の刻限になりたるやらん、自害はいか様〈やう〉にしてよきぞ」と宣〈のたま〉へば、「佐藤兵衛〈さとうびやうゑ〉が京にて仕して候ひしをこそ、人々後〈のち〉の世まで褒め候ひしか」と申しければ、「さては子細なし。疵の口の広きがよきござんなれ」とて、三条の小鍛冶〈こかぢ〉が剣〈つるぎ〉所望の為に打ちて鞍馬へ参らせたりける刀の六寸五分ありけるを、別当申し下ろして、今剣〈いまつるぎ〉と名づけて秘蔵して、持ちたるを、判官の少人〈せうじん〉にての時、守刀〈まもりがたな〉に奉りけり。柄〈つか〉には紫檀を合はせて、沓〈くつ〉は唐草籐〈からくさとう〉に竹の輪違〈わちが〉へをぞしたりける。判官幼少の時より身をも放たず秘蔵して、差し給ひけり。その刀を持ちて、左の乳〈ち〉の下より刀を立てて、刀を先〈さき〉後ろへつと通れと突き立てて、疵の口を三方〈ぱう〉に掻き破りて、腸〈はらわた〉散々に繰り出だし、刀をば衣〈きぬ〉の袖にて拭〈のご〉ひつつ、膝の下に引つ敷きて、衣引きかけて脇息してぞおはしける。(p.460-461)

田中本では流布本系とは異なり、「西国での合戦の際にも」云々といった文言がなく、かわって今剣の拵に対する記述のあることが分かるだろう。文学全集(2000)の梶原訳によれば、その拵は「柄には紫檀を貼り合わせ、鞘尻に唐草模様に籐を巻き、竹の輪違いの紋をあしらったもの」だという(p.461)。

※1 : 東洋文庫所蔵の丹緑絵入十二行木活字本『義経記』。元和・寛永年中(1615-1644)刊。なお、『義経記』諸本の分類に関しては上記出典欄を参考にしていただきたい。この佐藤(1995)の分類は写本に関するものだが、刊本は要するに「流布本」なので、ここも「流布本系」としている。ちなみに、新編日本文学全集(2000)の梶原正昭による解説では、内容及び形式から、判官物語系の写本、流布本系の写本、刊本の三つに大別、佐藤の言うところの判官物語とよしつね物語は、判官物語系として一括りにされている。

※2 : 国立歴史民俗博物館所蔵の『義経記』八巻八冊。田中穣氏の旧蔵だったため、田中本の名で呼ばれる(らしい)。「流布本や古活字本と比較して誤脱が少なく、『義経物語』の欠脱箇所を補い、増補部分を推測することができるといわれる善本」だという(新編日本文学全集(2000)解説p.510)。


〈考察:「沓〈くつ〉は唐草」?「轡〈くつは〉唐草」?〉

さらに別の写本を見てみよう。以下に引用するのは、その名の通り、赤木文庫本(赤木本)※3を底本とする『赤木文庫本 義經物語』(1974)である。ルビはこれまでと同様、一部のみ同書より〈 〉で示す。

「自害の刻限になりたるやらん。自害はいかやうにしてよきぞ」との給へば、「佐藤兵衛〈さとうびやうゑ〉か京にて、つかまつり候しをこそ、人々は後〈のち〉まて稱〈ほ〉め候しか」と申しければ、「さては子細し。瘡の口の廣きか良きごさんなれ」とて、三條〈でう〉の小鍛冶〈こかぢ〉が劍〈つるぎ〉、所望のために打ちて、鞍馬へ進〈まい〉らせたりける刀の、六寸五分〈ぶん〉なりつるを、別當〈べつたう〉申下〈おろ〉して、「今〈いま〉の劍〈つるぎ〉」と名付けて、祕藏して持ちたまひけるが、判官〈はうぐわん〉の少〈せう〉人にてをはせし時、守〈まも〉り刀〈がたな〉に奉〈たてまつ〉りけり。柄〈つか〉には紫檀を合はせて、轡唐草〈くつはからくさ〉、虎に竹の輪違〈わちが〉へをぞしたりける。判官〈はうぐわん〉幼少〈ようせう〉の御時より、身をも放〈はな〉さず祕藏して、西國〈さいこく〉の合戰〈かせん〉の時にも、鎧の下に差し給ひけり。その刀を以て、左の御乳〈ち〉の下よりかはと立てゝ、刀の尖〈さき〉後〈うしろ〉へ、づつと徹〈とを〉れとかき立てゝ、瘡の口を三方〈ぱう〉へ掻き破りて、腸〈はらわた〉散々に繰り出し、刀をば衣〈きぬ〉の袖にて拭〈のご〉いつゝ、膝の下に引〈ひ〉敷〈し〉きて、衣〈きぬ〉引き掛けて、脇息に押し懸〈かゝ〉りてぞをはしける。(p.209)

今度は、「西国の合戦」云々という記述と、今剣の拵に関する記述の両方が含まれている。詳しい説明は省略するが、佐藤陸(1995)によれば、赤木本の八巻に田中本との直接の書写関係はなく、田中本の誤脱を赤木本で補えるという。ということは、田中本に「西国の合戦」云々という記述がないのは書写の際の誤脱であり、今剣に関する本来の記述は、赤木本のように両者を具備するものだった可能性が高い。

ただし、田中本の拵に関する記述と赤木本のそれには微妙な相違がある。両者を比較してみよう。

   田中本「柄には紫檀を合はせて、沓〈くつ〉は唐草籐〈からくさとう〉に竹の輪違へをぞしたりける
   赤木本「柄には紫檀を合はせて、轡唐草〈くつはからくさ〉、虎〈とら〉に竹の輪違へをぞしたりける

違うのは、「沓〈くつ〉は」と「轡〈くつは〉」、「籐〈とう〉に」と「虎〈とら〉に」の二点。おそらく元は仮名表記であったのを、どこかの時点でそれぞれに漢字を当てたために意味が相違したものと思われる。「とう」と「とら」も、仮名なら読み誤ってもおかしくない。すでに見たとおり、田中本を梶原は「柄には紫檀を貼り合わせ、鞘尻に唐草模様に籐を巻き、竹の輪違いの紋をあしらったもの」(p.461)と訳している。「沓」を鞘尻と捉えているわけだが、「沓は唐草」ではなく「轡唐草」だとすると、意味が変わってくる。「轡唐草」は、単なる唐草模様とは異なる、織物模様の一種だからだ。また、赤木本では「虎に」の前に読点が入る。虎と竹の組み合わせは伝統的な意匠。「虎に竹の輪違へ」とは、半分ほど重なった二つ円に竹林の虎をあしらった図柄だろうか。

具体的な図柄の詳細はともかく、その図柄は刀の何処にあしらってあったのか、という問題もある。これは、田中本における「竹の輪違へ」にも言えることである。赤木本では、轡唐草との関係も問題になる。しかし、いずれの形が本来のものなのか、という問題も含め、これ以上の詮索は他の写本を参照してからの方が実りが多いだろう。いずれ、もう少し本格的に検討してみたい。以下、要継続調査。

※3 : 横山重氏所蔵、高木武氏旧蔵の赤木文庫本『よしつね物語』八巻八冊。高木氏によって発見されたからか、新編日本古典文学全集(2000)の解説では、「高木本」と呼ばれている。よしつね物語は、判官物語第二系列に幸若舞曲の詞章(もしくはその原型)による増補を加えて成立したものといわれる。



〈先行研究批判?:今剣は六尺五寸の大太刀だったか?〉

この今剣、義経の佩刀だけあって先行するコレクションにもしばしば取り上げられているが、少々気になる記述を発見したので、ここで指摘しておきたい。まず取り上げるのは、佐藤俊之とF.E.A.R『聖剣伝説2』(1998)である。同書に「今剣」の項目はないが、「薄緑」の項で今剣も取り上げられている。まずは該当箇所を引用しよう。

 義経ゆかりの刀には、もうひとつ、今剣(ルビ:いまつるぎ)というものがある。これは『義経記』に登場する名刀で、小鍛冶宗近(小狐丸:p.44参照―原注)の作という。宗近が宿願があって鞍馬に参詣し、6尺5寸の刀を作り上げた。鞍馬の別当(寺務を統括する僧官の役職名―原注)が今剣と名づけて保管していたこの刀を、幼少の義経がもらい受け、守り刀にしたのだということだ。義経はこれを西国の合戦のときも鎧の下に秘蔵していたというから、おそらく短刀に刷り上げた(刷り上げとは、刀剣の刀身を大幅に研ぎ、より小ぶりに作り変える作業のことである。刃が著しく損傷した刀を修繕したり、長刀を短刀に作り変えるときにおこなわれた―原注)のだろう。今剣は、義経が衣川で自害するときに使われた。(p.127-128)

問題は刀の長さである。「6尺5寸」。明らかに先に引用した三つの『義経記』とは食い違っている。同書の「参考文献一覧」を見ると、岩波書店と平凡社の二冊の『義経記』を参照していることが分かるが、おそらく前者は先に引用した日本古典文学大系の岡見正雄校注『義経記』(1959)、もしくは岩波文庫の島津久基校訂『義経記』(1939)※4、後者は東洋文庫の佐藤謙三・小林弘邦訳『義経記』(1968)※5であろう。このうち、岩波文庫版(1939)の当該箇所は文学大系版(1959)とほぼ同文(p.296)であり、東洋文庫版(1968)も口語訳ではあるが、内容的には文学大系版(1959)と一致する(2巻p.297)。三者ともに、刀の長さは「六寸五分」である。「西国の合戦のときも鎧の下に秘蔵していた」という記述も符合するため、『聖剣伝説2』が参照したのは、これらの『義経記』であると思われるが、だとすれば、この長さの違いは何なのか。

「6尺5寸」は、メートル法に換算すれば(一尺=30.3cmとすると)約197cm。かなりの大太刀である。自害には向かないであろうし、鎧の下に秘藏することなど不可能な長さだ。そのため佐藤俊之は「おそらく短刀に刷り上げた」のだろうと推測しているわけだが、ごくごく単純に考えるなら、これは「六寸五分」の読み間違いではないだろうか。刀の長さは通常、「○尺○寸」で表される。「六寸五分」を「六尺五寸」と見誤ったとしても、別段不思議はない。

実は、長さを「六尺五寸」としているのは、この『聖剣伝説2』だけではない。私が確認した中では、筑摩書房刊、古典文学全集の高木卓訳『義経記 曽我物語』(1961)も、

この太刀は、かつて京都の三条小鍛治が宿願をかけて、きたえあげ、鞍馬寺へおさめたもので、長さは六尺五寸あり、その後、鞍馬の別当が、神前から願いさげて、「いまの劔」と名づけ、たいせつにもっていたのを、義経が幼時鞍馬へきたとき、守り刀として別当が贈った名刀である。(p.218)

としている。同書は「底本としては、「義経記」では岩波版の日本古典文学大系本を主とし、日本古典全集本を従とし」て訳したと述べているが(p.366)、文学大系版(1959)は再三述べている通りだし、日本古典全集の『義経記』(1928)※6でも刀の長さは「六寸五分」である(p.260)。したがって、これは訳者の勘違い、もしくは誤植とみて間違いない。探せば「六尺五寸」とする『義経記』の古写本もあるかもしれないが、もしあったとしても、それ自体誤写である可能性が高いというべきだろう。

よく確認してから本にしていただきたいものだが、まあ、間違いというものは誰にでもあるものだし、この手の勘違いはいくら見直しても本人は気がつかないものである。『聖剣伝説2』も、長さ以外は『義経記』本文に忠実であるし、刷り上げ説が著者の推測であることも明確になっているので、この点をもって同書をことさらに責めようとは思わない。しかし、今回はこれだけでは終わらないのである。同じ間違いを犯している本がまだあるのだ。次に取り上げるのは、牧俊彦著/新紀元社編集部編の『剣技・剣術三 名刀伝』(2002)。この本には「今剣」という項目があるのだが、ここから問題の箇所を引用しよう。

 かつて、一人の刀工が鞍馬山へ参詣に訪れた。小鍛冶宗近、その人だった。祈願の証しにと宗近は六尺五寸(約一九五a―原注)の大太刀を鍛え上げ、山に残していったという。鞍馬山の別当は大太刀を今剣と命名し、以降も保管されていた今剣は守り刀として、幼少の義経に譲られたのであった。
 興味深いのは、この大太刀が武用刀ではなく、お守りとしての機能を果たしていた点だ。むろん、誰もが護身用に一振りを持っていた中世といえども、幼児に六尺五寸の大太刀を持たせておくはずがない。もちろん、ここでいう長さとは全長であろう。柄を除いた刃長は四尺(約一二〇a―原注)前後だったと思われるが、それにしても長すぎる。我々が伝え聞いている今剣は、短刀だ。都落ちした平家を追討するべく西国へ軍を進めた際、義経は今剣を鎧の下に忍ばせていたという。ならば、どれほど長くても、全長はせいぜい一尺(約三〇a―原注)。宗近が鞍馬山に残した大太刀の成れの果てが今剣だとしたら大磨上げ、つまり茎の部分から刀身を切り詰めて短くする加工を施したということになるのだが、まさか大太刀を一尺にまで磨上げたとは思えない。考えられる可能性としては、あくまで筆者の想像だが、何かの拍子で折ってしまった刀身の先の部分に手を加えて、短刀に作り直したのだろう。義経の最期を飾った今剣、本当に宗近の大太刀から生まれたのだとしたら、やはり後世まで語り伝えられるに値する名刀なのだ。(p.88-89)

やはり「六尺五寸」、そして大太刀からの磨り上げ説を採用している。では、この『名刀伝』(2002)は、どのような『義経記』を参照したのだろうか。巻末の「参考文献」を見ると、そこに『義経記』の名はない。そのかわりに確認できるのが、佐藤俊之とF.E.A.Rの『聖剣伝説(1、2)』である。つまり、上に引用した記述は『義経記』を確認せず、『聖剣伝説』のみを参照して書かれた可能性が指摘できるのである。原典を確認せず、一般向けの概説書からの孫引きで誤りを犯しているとすれば、『聖剣伝説』よりもはるかに罪が重いと言えよう。

なお、同書の著者は六尺五寸という長大さをいぶかり、「もちろん、ここでいう長さとは全長であろう」と述べているが、刃物の長さに言及する場合、まずは刃の長さに言及するのが普通であろう(現代でも例えば、刃渡り○○cmの庖丁などと表現するように)。私はそもそも、今剣が元は大太刀であったする伝承の存在を認めないが、それでは刃渡り六尺五寸の大太刀など有り得ないかというと、どうもそうでもないらしいのである。鈴木真哉の『刀と首取り―戦国合戦異説』(2000)によれば、平安・鎌倉期の刀の刀身は二尺四寸(72.7cm)〜二尺六寸(78.8cm)くらいのものが多かったという。しかし、鎌倉末期から長大な刀が出まわるようになり、南北朝時代にはことさら長大な刀が目立つようになる。『太平記』には、五尺三寸(160.6cm)の太刀が登場し、この頃の現存作品として最も長大だとされる吉備津神社(岡山)所蔵の太刀は、七尺四寸近くもあるという。しかもこの太刀、銘文から見る限り奉納用につくったものではなく、実戦に使われたものらしいのである(p.71-72)※7。『義経記』の舞台となる平安末期に六尺五寸の太刀があったとは考え難い。しかし、『義経記』が書かれたとされる室町時代には、六尺五寸の太刀は存在したのである。源義経の今剣が大太刀として伝承される可能性はあった。しかし、それは単なる可能性であり、事実ではないのである。

牧秀彦は『名刀伝説』(2004)の「今剣・薄緑」の項でも同様の間違いを犯しているが(p.62)、『名刀 その由来と伝説』(2005)の「薄緑と今剣」の項では一転して刃長を「六寸五分」とし、磨り上げ説は影の形もない(p.69)※8。「主要参考文献」を確認すると、『名刀伝説』(2004)には『義経記』の名は見えず、佐藤俊之とF.E.A.Rの『聖剣伝説(1、2)』があるのみだが、『その由来と伝説』(2005)には、梶原正昭校注訳の『義経記』(小学館)が挙がっている。後者には、田中本に拠ると思われる拵に関する記述もあるので、牧は2005年になって、ようやく『義経記』にあたったのだろう。間違いに気づいた時は「しまった!」と思っただろうが、伝説というものは、案外こういった間違いの連鎖によって豊かになっていくものなのかもしれない。

※4 : 底本は、校訂者である島津久基氏所蔵の古写本。八巻、無画、胡蝶装で、江戸時代初期頃の書写であるという。おそらく流布本系の写本なのだろう。

※5 : 巻末に寛永十年癸酉五月吉日西村又左衛門尉梓行のとある平仮名整版本を口訳したもの。全2巻で、巻1が東洋文庫114、巻2が東洋文庫125。

※6 : 底本は、奥付に「寛文拾庚戌初夏 吉野屋惣兵衞板」とある整版本。

※7 : 文化庁監修『国宝・重要文化財大全6』(1999)を見ると、国宝・重文クラスの刀剣にもかなり長大な大太刀のあることが分かる。愛媛・大山祗神社の「大太刀(無銘伝友行)」180.0cm(南北朝時代)、栃木・二荒山神社の「蛭巻大太刀(号祢々丸切太刀)」216.7cm(拵の総長337.0cm、南北朝時代)、新潟・弥彦神社の「大太刀(銘南無正八幡大菩薩石恵門烝家盛)」220.4cm(室町時代(1415))など。このうち、大山祗神社の「大太刀(無銘伝友行)」は国宝なので(他は重要文化財)、『朝日百科日本の国宝2』(1999)にやや詳しい説明が載っている。同書によれば、この太刀は建武三年(1336)、湊川の戦いで楠正成を自殺に追い込んだ大森盛長の愛刀であったといい、孫の直治がその太刀を寄進したと思われる願文が当社に伝来しているという(p.142)。これが事実だとすれば、180.0cmのこの大太刀も実用に供されたものだったことになる。

※8 : ただし、ここには別の誤謬がある。牧は『名刀伝説』(2004)で、今剣について、「まだ義経が牛若丸だったころ、鞍馬山へ参詣に訪れた三条宗近が祈願のあかしに残していった、と伝えられるものである」(p.62)と述べているが、このような記述は『義経記』にも『聖剣伝説2』にも存在しない。『義経記』に書かれているのは、「宗近が鞍馬に刀を納めたこと」と「義経が幼年の頃に鞍馬でこの刀を与えられたこと」だけである。これを同時期のこととみて「義経が幼年の頃に、宗近が鞍馬に刀を納めた」と読むのは、明らかに誤りであろう。そして、この誤りは『名刀 その由来と伝説』(2005)でも踏襲されているのである(p.69)。ちなみに、『日本美術史事典』(平凡社、1987.5)によれば、三条宗近は「永延(987-989)のころ京都三条に住したと伝え」られる平安時代の刀工(p.363)。源義経の生年は平治元年(1159)である。


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2005/09/18:初版
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