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〜『江源武鑑』に登場する器物・動物名前一覧〜

《第5展示室:おまけキャプション5》

『江源武鑑』は、近江の戦国大名、佐々木六角氏に関する事跡を記した軍書である。十八巻二十冊からなる大部のもので、天文六年(1537)から元和九年(1623)まで、日次記の形式で書かれ、巻一所載の「江陽之日記家々書伝」や巻十八巻末の記によれば、六角氏の家臣らが記した日記をまとめたものという。しかし、そこで語られる六角氏の歴史は虚構に満ちたもので、一般に、江戸時代になってから述作された偽書、と評価されている。
   そのため、戦国時代の歴史史料としてはほとんど顧みられていないようだが、本サイトにとっては非常に興味深い内容を含んでいる。それは数十に及ぶ刀剣などの贈答記事である。六角氏とその家臣、六角氏と室町将軍などの間で、献上・下賜される刀剣・甲冑・馬などには名前の付いたものが多く、その由緒が語られるものも少なくない。刀剣については別に載せたので、ここにはそれ以外の器物・動物で名前のあるものを一覧にした。なお、全十八巻を通読したわけではないので、見落としもあるかも知れない。見つけた方は、お知らせいただけると有り難い。

本サイトで扱う武具には、摂関家重代の小狐など、かつては実在したであろうものが含まれているが、『江源武鑑』に登場する武具は、ほぼすべて述作者の創作したものだと思われる。根拠は二つ。一つは、室町将軍家重代といった刀剣が複数登場するにもかかわらず、その何れも『江源武鑑』以前の諸書に同じものが見出せないこと(私が知らないだけかも知れないが)。二つめは、明らかに別の由緒を持つにもかかわらず、同じ名前を持つものが何組かあり、馬と刀で名前が同じ、といったものもあること。これらはたまたま同じ名前のものが実在したとか、記録者の誤記と考えるよりも、創作するときの不注意(手抜き)と考える方が自然である。もちろん、本サイトは「"幻想の"武器博物館」なので、創作でも一向に構わない。それに、ある時代の名刀や名馬に対する人々の考え方や関心を伝えるものであることに変わりはないだろう。なお、個人的に最も面白かったのは鐙(あぶみ)の「先登」。名前のある鐙などというものに出会ったのはこれが初めてである。

参考文献
◇『江源武鑑』全十八巻二十冊, 荒木利兵衛, 1656.11
◇磯部佳宗 「『江源武鑑』偽書説と黒川道祐―醍醐の花見に関する記事を考察の起点として―」(『中京国文学』第28号, 中京大学国文学会, 2009.3
◇山本大, 小和田哲男編 『戦国大名家臣団事典』西国編, 新人物往来社, 1981.8
◇今田洋三 『江戸の禁書』 吉川弘文館(〈江戸〉選書6), 1981.12
◇山本大, 小和田哲男編 『戦国大名系譜人名事典』西国編, 新人物往来社, 1986.1
◇笹川祥生 『戦国武将のこころ 近江浅井氏と軍書の世界』 吉川弘文館, 2004.8
◇佐々木哲 『佐々木六角氏の系譜―系譜学の試み』 思文閣出版, 2006.3
◇佐々木哲 『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』 思文閣出版, 2007.11


◆甲冑
分類名称登場巻概要
名鎧山ノ上
(やまのうえ?)
◇巻四下天文十九年(1550)五月二十二日、同月四日に他界した前室町将軍足利義晴の御遺物として、大原実盛の太刀とともに江州(六角義実)に下賜された鎧甲。
宝鎧江龍
(ごうりゅう)
◇巻六佐々木大明神伝来の重器の鎧。弘治元年(1555)三月五日、六角義実より、同月三日に家督を継いだ嫡男義秀に、名刀飛龍丸、二尊の御旗、団扇、采配などとともに譲り渡された。
飛龍丸
(ひりゅうまる)
◇巻十五下佐々木大明神伝来の鎧。元亀元年(1570)九月二十日、重病の六角義秀はこれを着けて大津の城に着陣した。おそらくは名刀「飛龍丸」と名鎧「江龍」との取り違えに拠る名称。
名鎧羽根田の鎧
(はねだのよろい)
◇巻六弘治元年十二月四日、箕作定頼の嫡男義賢に名刀蛇頭とともに与えられた鎧。これは義賢を若年の六角義秀の後見とするため、この日より義賢を義実の連枝(兄弟)と号したことに伴うもの。
名鎧小袖
(こそで)
◇巻十一室町将軍家重代の鎧。朝敵退治の際に着けたものだが、永禄八年(1565)五月十九日、三好山城守入道笑岩らの軍勢に攻められた時の将軍足利義輝は、これを着して最期の戦をした。


◆馬具
分類名称登場巻概要
名鐙先登
(せんとう)
◇巻六承久の乱の時、佐々木信綱が宇治川を渡った際に付けていた鐙(あぶみ)で、関東よりの先登(さきがけ)であったことから、この名が付けられた。弘治元年(1555)正月三十日、六角義秀より、朽木宮内大輔貞綱に与えられたが、これは義秀が貞綱の息女に密かに思いを寄せていたからだという。


◆馬
分類名称登場巻概要
名馬白浪
(しらなみ)
◇巻二天文八年(1539)二月十九日、若狭国粟屋右京より、六角義実に献じられた八寸の白馬。
名馬大陽寺栗毛
(たいようじくりげ)
◇巻二天文八年七月二十一日、越前の朝倉弾正忠より使節があり、六角義実に進上された名馬。一日に三十里を馳せたという。義実はこれを非常に大事にした。
名馬白浪
(しらなみ)
◇巻二天文九年五月二十日、室町将軍足利義晴より、名刀山蜘とともに六角義実に下賜された名馬。同名の馬が前年に若狭国粟屋右京より献じられているが、別の馬とみられる。
名馬伯耆栗毛
(ほうきくりげ)
◇巻三天文十年四月二十八日、御曹子の誕生を祝して、雲州の尼子左衛門督より、須佐兵部少輔光綱を通し、六角義実に献じられた名馬。この時、あわせて名刀三沢丸も献上された。
名馬一足
(いっそく)
◇巻四上天文十六年二月十八日、六角義実より、前日征夷大将軍に任じられた足利義輝に献じられた八寸の芦毛馬。この時、あわせて名刀近江万歳も献上された。
名馬能登栗毛
(のとくりげ)
◇巻四上天文十七年十一月二十日、観音城に入り、多賀社に参詣した細川修理大夫晴元に、六角義実が贈った名馬。
名馬龍雲
(りょううん)
◇巻十永禄五年(1562)三月二十三日、六角義秀と箕作承禎(義賢)・義弼父子とを和解させるため、将軍家は江州に細川兵部大輔藤孝を下した。和解は無事成り、義秀はこの名馬を藤孝に贈った。
名馬虎ノ頭
(とらのかしら)
  ↓
再興丸
(さいこうまる)
◇巻十二永禄九年十二月二十三日、六角義秀が、前将軍足利義輝の弟義昭に進上した名馬。元は京極長門守高吉が義秀に献上したもので、江東の観音寺から洛陽まで一日で往復しても汗一つかかないといわれるほどの強馬だという。義昭は大いに悦び、その名を変えて「再興丸」とした。『江源武鑑』によれば、義昭は出家して南都一乗院の門主となっていたが、前年の五月に兄義輝が三好笑岩らに滅ぼされて後、江州に逃れた。還俗して勅許なしに将軍と号し、この時も六角氏の元にいて、家再興の機会をうかがっていた。
名馬龍尾
(りゅうび)
◇巻十三永禄十一年十月二日、足利義昭を奉じた六角義秀・織田信長の軍勢に降伏した、三好笑岩の旗奉行池田筑後守政久が信長に献上した名馬。義昭には名刀国武丸が献じられた。


[付記] : 『江源武鑑』についてもう少しだけ詳しく。六角氏の歴史に関して、『江源武鑑』と通説との最大の相違点は、六角氏の系譜にある。通説によれば、六角高頼の嫡男氏綱は家督を継いだものの早世し、嫡子がいなかったため、家督は氏綱の弟定頼が継いだとされている。しかし、『江源武鑑』によれば、氏綱には義実という子がおり、家督はこの義実が継ぎ、義秀、義郷と続いたというのである。そして、定頼の系譜は(六角氏ではなく)箕作氏を称して、嫡流である義実らの後見をつとめたという(下記系図参照:赤字で示したのが実在を確認できず、『江源武鑑』などで創作されたとみられる人物)。

六角高頼┬─氏綱──義実┬─義秀──義郷
└─義頼
├─定頼──義賢┬─義弼
└─義定
├─高保
└─高実

   なお、『江源武鑑』などが語る系譜の方を史実と見る説もあり、最近では、佐々木哲らがこれを主張している。佐々木は、沢田源内が佐々木氏郷を自称して自身を六角氏の嫡流(義郷の子)と偽るために『江源武鑑』を偽作したとする十八世紀以来の説を否定。源内と氏郷を別人とし、氏郷と『江源武鑑』とのつながりも否定している。しかし、佐々木の主たる根拠の一つ、『江源武鑑』の初刊を元和七年(1621)とする説には、十分な根拠がないことを磯部佳宗が指摘している(磯部によれば、明暦二年(1656)板が初板)。沢田源内=佐々木氏郷を述作者とする通説には、確かに議論の余地があるが、家臣たちの日記をまとめたものではない、という意味で、『江源武鑑』が偽書であることは間違いない。そこで語られる六角氏の系譜についても、これを史実と主張するのは、かなり難しいものと思われる。佐々木の著書は歴史学界から無視されているようだが、これはその主張が反論にさえ値しないと見なされているためだろう。



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2010/09/26:初版
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